293. 決意の夜に
293. Fight the night
こうして失意の沼底に沈み、途方に暮れて正解なのだ。
俺達は彼らに、何かがあったとは、考えない。
大きく譲歩して、少なくとも、気付けていない。
万が一にも彼らの群れが、危険に侵されるような事態に陥ったとして、今の彼らにはその実感が欠けていることになる。
狼の群れに忍び寄ることのできる脅威。
そんなものがあったなら、Skaさえも、欺けるようであれば、もうお手上げだ。
辟境の地でへばっている俺が知覚することなんて、無理な話だろうし。
幸いにもその場に居合わせていたって、皆滅んでいただろうさ。
でもそんな、些細な虫の知らせさえ無いから。
俺達は、来るかも分からない訪問者を、今日か、今日かと待ちわびて見たりなどするのだ。
半殺しの拷問生活なんて、もう沢山だったのに。
お前が、洞穴に来てくれなかったらどうしようと、そわそわしながら岩皿の上で横になるのなんて、もうごめんだ。
何も無いまま終える一日に、何度胸を潰されかけたと思う。
明日は来るかな、などと、馬鹿みたいな期待を抱けるほど、俺は幸せを見出す視座に立ててはいないぞ。
もし、これからもずっと、あいつが来てくれなかったら?
そんな苦悶の日々に、さっさと終止符を打ってしまいたくて。
“……。”
俺は妄執とも言えぬ結論に自ら至り、
あんな言葉をTeusに向かって吐いた。
そう、単なる被害妄想とも、言えないのだ。
だから彼は、ある種の同調と、俺に劣らぬ困惑の表情を暗闇の中に浮かべた。
俺はやっぱり、嫌われ者だったというだけ。
大狼に対する、至極当然の恐怖。
そこに飛躍など、何ら在りはしない。
俺は、Skaのことを、信じる気持ちは揺るがずにいたのだ。
もし、彼方の世界で、何かがあったなら。
彼は、俺の召喚術に応じる。
どれだけ、俺の面など拝みたくもないと私情が吠えても。
彼には、護り抜くべき群れ仲間がある。
愛しの君を、終ぞ守ってくれなかった大狼に、頭を下げるのは、さぞかし癪ではあろうが。
喩えどんなに、俺の影が憎くとも。
彼は優先できる理性を持ち合わせた賢狼であるのだから。
俺は英雄なんかにはなれないけれど。
そいつ助けを求める遠吠えを、この地まで響かせることのできる狼なのだ。
だから、この状況はおかしいと、俺は考える。
Teusのことを、俺はまだ、心の何処かで、信じられずにいたせいかも知れない。
何も、起きていないように見える。
あいつもまた、この状況を、別の意味で ‘おかしい’ と、そう感じているでは無いだろうか。
‘お前、こんな夜分遅くに、何をしに来たんだ?’
‘…君と一緒だよ。何となく、今晩じゃないかなって。そんな気がして。’
本当に、俺と同じようなもどかしさに嗾けられ、俺と同じ目的で、
昨晩の夜、臨場していたか?
彼は、予感としてでは無く。
起こるべき未来に立ち会う為の臨場だったでは無いか。
そのように邪推してしまうのだ。
本来であれば、SkaはTeusに逢えた。
それを妨げるような、’何か’ が、そこにはあった。
Teusは、それを探して、金属箱の奥まで一人で歩いて向かったのでは無いだろうか。
もし見つけてしまった場合に何らかの工作をする為、
夜の帳に乗じる必要を感じたのでは無かったか?
それは何だ?
日中は、北岸の洞穴に籠って眠っているのを知っていて何故。
俺が見張り番をするのはもう止めたという言葉を信じ、
敢えて俺の行動パターンの裏をかくようなことをしなかった?
それは何故だ?
恐らく、手遅れな所まで差し迫っているにも拘らず、
それの見当がつかぬことは、残り少ない頁の中で、如何様に響いてくる?
Skaの証言が正しければ、彼はLyngvi島への入場を許可された直後は、俺が袂を分かったことに酷く憤慨し、入り口に近づくことさえ、激しく拒絶していた。
やはり、行動に整合性が、感じられない。
下手をすれば、一人でヴェズーヴァの極寒に身を投じることにもなりかねなかったのに。
“やれやれ……”
そう言う訳で、連日、金属箱の探索に明け暮れている次第だ。
お前は、もう迂闊に来れないよな。これ以上、尻尾は出せまい。
俺が日中、自由に出歩けないように、お前も夜更けは、外出を咎められる身となったのだ。
だから、自由に、堂々と調べ上げてやる。
Skaの方から来ないと言うのであれば、無理やりにでも此方から呼び寄せてやりたいのだが。生憎そう言った罠を俺は縄張りに張り巡らせてはいなかった。
父親とは、違って在りたいという気持ちの表れであるとも言えたが。
元々、普段から、そんなことをしていた訳では無い。
洞穴に仕掛けた転送路は。
俺が見越した、最終手段だったから。
苦肉のそれであると、Teusには理解して貰えないんだろうがな。
解読だ。
“俺の骨も、到頭折れる日がやって来たか?”
もう、3日目の晩だが、骨身と言うより、眼精疲労の影響を大きく感じている。
首回りの筋肉が、がちがちに凝り固まってしまいそうだ。
Teusの旧友の…ああ、何と言ったか、Torだ。
Tor殿御一行様が残した、召喚の痕跡を、何の気なしに文字に起こした。
これは、あの発掘とは逆の方向。
文字から、これから何が起ころうとしているかを、導き出す作業。
知識量によっては、此方の方が、遥かに楽であるのだろうが。
生憎、此方は独学だ。
めちゃくちゃに可読性が悪いコードを延々と読まされ、集中力が、中々に続かない。
まだ狼らしく鼻に頼って、行動履歴を明らかにするほうが長けているらしい。
一体誰が、こんな呪文を彫ったのだ。
敢えて、読みづらくすることで、俺のような解読者を阻もうと言う魂胆かと、そんな疑念が頭を擡げるほど、
まだ、Teusの方が、洗練された唱え方を選べていたぞ。
松明を口に咥え、懸命に金属箱の内壁に刻まれたルーン文字の綴りに目を凝らす。
“何処かに……何処かに、ある筈なんだ…”
効率を優先して、舐め上げた舌に感じた凹凸で読み取ることも考えたが。
余りにもこの箱は不味かった。とてもじゃないが不恰好に舌を垂らし続けては、涎も足りない。
俺に誕生日プレゼントで寄越してくれた、お菓子の家みたいに。
屋根から床まで、ずっとずっと、甘ったるいだけの駄文を、平らげていたい。
起伏の無い、つまらない物語で良いのだ。
ただ、今よりも心地良くて、誰も傷つかなくて済むような。
そんな間延びした日々を。
“くそっ…天井にもあるのか…”
前脚を壁に立てかけ、自重でこの箱が転がって大事故にならないかと憂懼するのも馬鹿らしい。
蝙蝠よろしく、壁に爪を喰いこませて張り付き、ひたすら足元の文字をなぞる。
“必ず…必ず、見つけてやる…”
この転送の、からくりを見抜くのだ。
俺の名を刻んだ一文が、何処かに。
俺だけの転送を禁じた、例外処理。
目的こそ子細に記してはいないだろうが、
その全文が書かれている場所が、この内壁の何処かにある。




