292. 夜纏いの突入口
292. Night-clad Breach
ランタンを片手に真っ暗闇を突き進むような、向こう見ずな探索を、もう俺は流石にしないだろうと思っていたけど。冒険じみた高揚感が、握りしめて冷え切った左手に籠って悪くない。
ちょっとでも先を照らしたくて、腕を突っ張る癖も、相変わらずだね。萎びた半身には応えるよ。
ヴェズーヴァを探し求めて、延々と泥濘んだ樹林を彷徨ったっけ。もうこの脚じゃあ、無理だろうな。
ゴルトさんの邸宅を、おっかなびっくり、最奥へと進んで行く緊張感が、少しはあって。
天狼の仔と一緒に再び降り立った猛吹雪の世界よりは、行く先を見据えられていそう。
これは只の、隠遁者の深夜徘徊。
誰にも迷惑が掛からないのであれば、けっこうなことじゃないか。
明け方には、ちゃんと彼女の隣で眠っている訳だし。
「此処、だよな…?」
日中でも、異質な建造物は日光を完全に吸収する黒体の如く聳えていた。
真夜中では、その壁面を視認できる訳もない。
内壁は、金属の変哲もない板だったはずだけど、開かれた先もまた先の見通せぬ漆黒であったから、俺は過ってそのトンネルを、知らぬうちに潜り抜けてしまわないかだけが心配だった。
カチャンっ……
しかし、杞憂だったようだ。
ランタンが壁にぶつかり、乾いた金属音を鳴らす。
恐る恐る右手を伸ばし、前方を探ると、果たして平たい感触の壁面に行き当たった。
本当に、前方にあるのに、見えないんだな。
触り心地は、大理石のように滑らかだったが、何故かそれは妙に生温かい。
強く押し込めば、めり込んで行けそうな、生物的な温もりに感じられた。
「……。」
俺はそのまま身体を壁面の近くまで引き寄せると、ゆっくりと手の平を壁の上に滑らせながら、左へと進んでいく。
壁が途切れ、角に突き当たるまで、61歩。
そこから引き返して、今度は右へ、同じように歩数を数えながら、進んでいく。
「……148。」
そこで、壁が、折れ曲がった。
開いた扉に、手が触れたのだ。
日中に確かめた時よりも、歩数が多いや。
やっぱり、おっかなびっくりに歩いているせいかな。
でも、見た目は立方体みたいだったから、あと70歩ぐらいで、入り口を拝めるね。
日中でさえ、金属箱は大狼を押し込めることができるほどに巨大で、見上げることが出来ないほどだったのに。歩数だけで感じ取った姿は、より一層自分の前に無機質に立ちはだかった。
「さあ…着いたぞ。」
全くその実感は無かったが、再び壁面が途切れ、俺は到頭、その裏手に回ることが出来た。
近くに、篝火の跡が残っている筈だけれど、この壁を離れるのは流石に怖い。
このまま、進もう。
今、自分が見ている前方が、あの金属箱の最奥であると言われても、壁面と一切の見分けは付かない。
やはり、その方角からは、心成しか冷たい風が戦いでいるような気がしたから。
それだけが、視力を奪われた自分に確かめられる方角の手掛かりだった。
それに相対するように進めば、いずれ入り口の床板を脚が踏む。
そこから、148歩。ちょっと保険をかけて、130歩。
いや、100歩かな。
そこまでは、進んで良い。そこまでなら、きっと大丈夫。
俺は向こう側の世界へ、連れて行かれない。
この転送路は、俺を呑み込んだりはしない。
その境界線まで覗いて、誰もいなければ、帰るだけ。
それだけだ。
「……。」
――――――――――――――――――――――
願っても無いことだ。
どれだけ内面を取り繕うとも、結局のところ、俺達は気の置けない仲らしい。
あれからちょうど10日後の夜更け。
もう役目を終えたと思われる金属箱の前で、俺達は鉢合わせを喰う。
言っておくぞ。
俺は、裏切り者を、待ち伏せしていたのではない。
だから、お前を押し倒すような真似をしなかった。
ヴァン族の門兵と違って、お前にはその必要も無さそうだ。
だから、ただ、お前が箱の外へと足を踏みだすその瞬間に。
金属箱の天板から、飛び降りてやっただけ。
誰かが、向こう側から、歩いて来たのかと、勘違いをさせられただけ。
別にお前を問い質すような場面とするつもりなど、毛頭なかったのだ。
にも拘らず、俺は彼の寿命を、そうだな、10年ぐらいは縮めさせてしまったらしい。
許せよ、Teus。これでも俺は、お前の死を見届けるほど自分が長生きをするとも思えないんだ。
「びっっっっっくりしたぁ……!!」
慌てふためいて転び、ランタンを駄目にしやがって。
もう良い、このまま話を進めさせてもらうぞ。
「心臓止まったよ。ちょっと今、動いてないかも。」
「そいつは良かったな。ガルムもさぞかし、喜んでいるだろう。」
「きっついなあ。冗談…」
真っ暗闇で、表情も具には分からずとも、俺が嗤っていると分かってくれると信じているが。
「…君も、探しに来たのかい?」
生憎、今はそんな風に星の巡りを楽しんでいられる状況でも無さそうだな。
「何のことだ。」
「とぼけるってことは、そうなんだね。」
そう。俺達は、まだ、来客を待ちわびていたのだ。
「ねえ……Fenrir…」
「Skaが来ないってのは、やっぱりおかしくない…?」
「だから、前にも言っただろう。転送が完了するには、それなりに時間がかかるのだと。」
俺が、彼女と二匹きりでいる所に、居合わせたくなんか無いとお考えのようだったからな。
であれば、当然、待つだろう。
SkaはYonahがヴェズーヴァに到着するまで、決してあの金属箱を潜ろうとはしない。
「でも、もう一週間以上は経ってるよ?」
「Skaを送り届けてから、彼女がそこから姿を現すまでも、それくらいはかかった。」
わざとらしい。お前も今日ぐらいかと見計らって、ふらりと姿を現すふりをしている癖に。
「俺の記憶が正しければ、半日ぐらいで、あっちに着くって…」
「だから…だから、そう言うことなのだろうよ。」
「どういう意味さ、俺には何も…」
「皆まで言わせるなっ!!」
俺はFreyaがすぐそこの家屋で休んでいるのも構わず、鼻先に思いきり皺を寄せて唸る。
「しっ……」
怒号それ自体には、一切動じた様子を見せず、彼は左手の人差し指を唇に当てて顔をしかめた。
「何か、Yonahの機嫌を損ねるようなことした…?」
「そうなんだろうさ。」
「君が…?まさか、有り得ないよ。そんなこと。」
「しかし、この有様だ。これが確たる証拠では無いか。」
「うーん…Fenrirが、乙女心を理解できなかったにしてもだよ…?」
「乙女心とか言う奴が、一番そう言った機微に疎いのだけは、良く知っているぞ。」
「まあ、負け惜しみは聞かなかったことにしてあげるよ…」
随分と、都合の良い耳をお持ちのようだな。
ええ、番のいない俺には、返す言葉も見つかりませんとも。
そう不貞腐れると、大きな欠伸のついでに舌で口の両端を舐めとって仕舞い込む。
「でも、納得いかないんだよなあ…」
Teusはマントの中で腕組みをして、入り口の壁にもたれると、首を傾げて、独り言を呟く。
少なくとも、公私混同はしないって言うか。
悲しそうな顔してでも、俺の元には来てくれると思うんだよね。
「お前がそのような違和感を抱くのであれば、やはり彼は無礼を働いているということなる。あいつが次に姿を現した時に、きちんと叱ってやらなくてはな。」
「違うんだ、なんて言うか…」
「分かんないかなあ、Fenrir。」
彼は、簡単な言葉しか操れぬ魔物を相手にしているかの如く、ゆっくりとした口調でこう綴った。
「Skaは、そんなことじゃ、怒らないよ…?」
「は…?」
ぽかんと口を開き、俺は一瞬、彼が望んだとおりの怪物になりかけた。
「よくもまあ、そんな呑気な感情移入に浸れたものだな…!」
お前がFreyaを、別の男に奪われたらと想像すれば、とてもそんな発言は出来ないはず…
「そう、誰に、かは重要だ。」
「わかってる。Fenrirの方こそ、皆まで言わせないでよ。それぐらい。意地悪しなくても、頭良いんだから。」
「……。」
燃え上がる火種が、脚裏で踏みつぶされた様に消沈する。
思いのほか口調鋭く、また感情を見事に抑えきった反論であっただけに、俺は面食らった。
「でも、君だ。雌狼を玩具のようにしか考えない、色魔とは違う。」
「ちゃんと帰って来た妻を、何も言わずに、優しく迎えるさ。」
「……。」
「まあ、取られたって気持ちは、確かに否めないんだろうけど。それは、君の言う通りだ。」
「自分は、値しないのかもって、思っているかも知れない。」
「いいや、その逆だ。」
「あいつはきっと、俺ばかりではなく、お前に対しても、同じ怒りを抱いている。」
「俺達と関わり合うことは、きっと二匹の仲を引き裂いてしまいかねない、と…」
「それを、今になって…?彼の考え方が、変わったってこと?」
「だが、案外ヴェズーヴァは、ようやく狼達にとって、真の楽園になれたのでは無いか?」
大狼による、歪な群れの統率も無ければ、人間と交わした、末代まで続く誓いも無い。
お前には、とんだとばっちりだろうが。
彼らは、ひょっとすると、真に解放された世界で、俺達のことなど、忘れて生きていたいのかも…
「……そんな…」
「本気で、そんなこと……!?」
「自分が、群れ仲間たちとゴルトさんの関係を、ぶち壊してしまったって…?そんなこと考えて…?」
「いや…その…そこまで、は…」
「願っても無い休暇だったが、彼らにそんなことを考えさせるきっかけに、なったかも知れない、というだけだ。」
「……。」
「Fenrir…?」
愚鈍を顧みず、気持ち良く喋ってしまった己を呪った。
表情がはっきりとしないだけで、彼が泣いているのにさえ気が付かなかった。
彼の啜り泣き声が、ひと際鋭く耳を刺すのに耐えられず、後退って狼狽える。
「俺…おれ…?」
ともすれば、この暗闇の奥へ、逃げ込んでしまいたいぐらい。
「……。済まない。」
「俺も、正直言って、SkaやYonahが何を考えているのか、分からないのだ。」
「あいつらは、お前のように、本消で俺を叱ってはくれないから…」
「…ちゃんと、乗り越えられると思ってた。」
その言葉に、俺の方が、膝を崩してしまいそうなぐらい、愕然とする。
「Yonah。…Skaに、なんて伝えたんだろう。」
「ただいま、それだけじゃないのか?」
「ああ……」
「……Freyaは、そうとだけ、だったかな。」




