291. 薄皮
291. Veneer
憑き物が取れたように、とは。
きっとこのような虚脱感を言うのだ。
或いは、狼の鼻を捻じ曲げるような甘さのラム酒に溺れた、
翌朝の頭痛はこんなものであったか?
少なくとも、俺が我が狼へと身体を明け渡してから、再び自由を譲渡された時は、こんなんじゃなかった。
ほんわかと、心は代わりに温められ、全身に、浸された快楽が残って。
寧ろ恍惚感さえを覚えていたと言うのに。
無理解の一つにでも、苦しめられそうなほど、直視し難い。過剰なまでの超現実。
きっとこれが、それだ。
実際、俺の視界の端には、彼女の姿が、絶えず捉えられるようになっていた。
俺が、境界の線引きに失敗した為だ。
こんなの、俺の眼が、映し出している幻想に過ぎない。
真のYonahの姿が映るようになった、などと。
これが現実であるかのような錯覚の、その逆を考え始めている。
俺は到頭、現実を直視できなくなり、
これを幻覚であると、都合よく棄却しようと足掻いているのでは無いか。
どちらだ。これは。
その区別が、本当につかない。
俺は、おかしくなってしまったのか?
Yonah、俺の前に、その姿を晒さないでおくれ。
その尻から腰に掛けての毛の禿げようと
紐のように細ってしまって生気を失った尾が。
俺の眼を焼く。
何があった。
“……。”
そこからは、記憶の殆どに抑揚がない。
荒れ果てた毛皮の如く、無為に抜け落ちていて。
気が付けば、耳も聞こえなくなるほどの豪雨だ。
あれから、雨期がこの島を覆い尽くした。俺達の痕跡を、跡形も無く洗い流そうと降り頻っているらしい。
“酷い嵐だ…迂闊に出歩けぬな…”
などと俺は、言い訳がましく、彼女に聞こえるように呟いて見せたりなどする。
それでも夜中よりは遥かに明るい洞穴の入り口で、ちょっとは涼しくなった霧深い雨林を出歩いてやろうじゃないかと外を覗き込んでみるのも、躊躇があって良い。
安全な洞穴に引き籠っているのに、毛皮の芯までずぶ濡れの気持ち悪さを覚えるのなら、さして変わりあるまい。
どうした、出掛けぬのか。我が妻よ。
我は、其方を二度と、洞穴の奥に、置き去りにしとう無いのだぞ。
帰りたくない。もうちょっとだけ。
そう其方は、申すのか。
ああ、ならば、仕方はあるまいな。
であれば。
だらだら、だらだらと、土砂降りの水で薄まった日々を数えながら、引き延ばしていよう。
我が狼の墓標が、今度は我らの雨宿りとなるようだ。
この霖雨蒼生を、見届け終えるまで、ずっとこうしていよう。
我らは、二匹が羨む、理想の番であるのだから。
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彼女との睦まじい生活も、三日程度のつもりであったが。
結局のところ、俺が長く引き留めてしまったせいで、一週間の滞在となった。
しかし良い。こうして、陽はまた昇った。
止まない雨など、本当に無かったのだ。
「…お見送り、しなくて良かったの?」
お前に、港町に巨大な脚を置いた虹の帯は、どのように映る。
Teusよ。却って、不吉な予兆として、お前に囁いては来ないか?
俺には、薄ら寒い美しさの一つとして、永久に記憶に繋ぎ留められてしまった。
「彼女、今帰ってしまったみたいだけど。」
「…ああ。」
「伝えるべき感情は、余すことなく交し合ったさ。」
これで良い。
その金属箱から、もう彼女が姿を現すことは無いだろう。




