288. 見るに堪えない私 3
288. The worst of me 3
「ああ、くそっ…駄目だ…」
俺は頭に血が上って、いつ我を忘れ、人の絶えて尚、保たれた美しい景観に爪痕を残すかと気が気でなかった。
暑いのは、勘弁だと、あれ程言っただろう。
淀みなく悪態を吐き、仕方がないなと頭を振っても、次の瞬間には、また己を苛む自責の念に、情けないかな、愚痴が止まらない。
「どうしたら、どうしたら良い…」
媚びるように鼻を擽るリンゴの一球を口に咥えても、涎が湧いて来やしない。
こんなに腹が立つと、空きっ腹も埋まるのだな。
であれば、飢餓に喘いでいた俺に何よりも必要だったのは、貴方への懺悔では無く、もしかすると人間への絶えぬ正しい憎悪であったのかも知れない。
だが、困り果ててしまった。
本音を吐露すれば、何に対する怒りであるか、整理が付かずにいるのだから。
強いて言えば、あんな言葉を口にした自分、か。
取り消したくても、もう手遅れだ。
“我が…狼よ…”
何故、口を突いて出る必要があったのです?
私は、どうしても、彼女と此処で、密会を果たさねばならないのでしょうか?
“お言葉ですが…”
此処は、貴方が最高の自分として、私に身を窶すのに、適当でないと感じてしまいます。
あの森で、貴方の縄張りで良かったでは、ありませんか。
此処は、毛皮を駄目にしてしまいます。
態々、南国の僻境を、貴方の式場とせずとも。
望む青の楽園で、悠久の時を過ごせば。
その世界が潰えるまで、皆が途切れることなく、祝福の吠え声を上げてくれると言うのに。
どうして、もっと早く。或いは遅く。
その感情を、発露させてはくれなかったのですか。
それに私は、奇跡の復活を遂げてから一番、最悪だ。
心身ともに弱り果て、こうして保つべき冷静さを欠いています。
私は、貴方に最も相応しくない。
貴方を、今までで一番、傍らに感じない。
今此処で、貴方がその通りの外れから、優雅に姿を現してくれたとしても。
ともすれば、私は恥ずかしさのあまり、尻尾を挟んで、逃げ出してしまうのでは無いでしょうか。
「ああ……」
顔の火照りが、収まらない。
此処は、極寒の雪上であるのだぞと言い聞かせてみても、却って鋭敏な髭が痒みを伴う。
「う、うぅ……」
到頭、俺はその場に座り込み、俯いて嗚咽を漏らしてしまったのだ。
何故、悲しいのかも、甚だ理解できない。
確かに、俺は、間違えた。
しかし、悔いるような後味は、牙の隙間に滲まぬのだ。
Skaが悪い知らせを咥えて来ないことに対してでも。
先刻のTeusとの諍いが耳にへばりつくからでも。
況してや、最悪の事態が齎す胸騒ぎに対してでも、無いのだ。
「……。」
これは…、これは…何なのだ?
火照った毛皮を冷やすのに、随分長い時間を夜風に当てられていた。
西岸から吹く潮風は、臭いばかりがきつくて、到底心地よいとは言い難いが。
これを、あいつは好きだと言うのだから、金槌の好みも良く分からぬ。
本来であれば、振り返った先にある港町の景観は、明るく照らし出されているのだろうな。
此処は、一匹で佇んでいられるような気分になれるから、その点においては、ヴァン川の畔に近しいものがあって、共感できる。
そしてあれが、ヴェズーヴァであると形容するのなら、お前はいつでも人間に優しい世界へ後戻りできる、安全な距離感が心地よいのだろう。
はて。二人の間の灯りが見当たらない。
ああ、俺が消し潰したのだったか。
激昂の余り、その時の記憶が飛んでいる。
「嘘だろ……。」
しかし戻ってみれば、薪の後は、既にもぬけの殻だ。
あいつ、俺が戻るまで、待っていろと言ったはずでは無かったか。
彼方も彼方で、耳を削ぎ落されてしまっていたらしい。
ふざけやがって。気分を損ねると、直ぐに俺を困らせようとする。
翌朝、覚えているが良い。
俺も偶には、狡猾と名高い狼の本領を発揮してやらねばなるまいぞ。
何をしてくれようか。
市場の食糧は、喰い尽くしても湧いてくるなど、幻想に過ぎぬと思い知らせる、兵糧攻めか。
それとも良からぬ気配を追跡しなければと尤もらしい空言を吐き、見張りを三日三晩、押し付けてやろうか。
はたまた、彼女は一晩だけ姿を現し、もう既に去った後であるなどと、真っ白な嘘を―……
“……?”
誰だ。
蠢く影を、視界の端で辛うじて捉えることが叶ったのは。
夜空が思いの外、明るく済んでいたからだ。
“……Skaか。”
随分な間の悪さで、姿を現してくれたな。
戻ったのであれば、直ちに知らせよ。
或いは、誰も迎えぬことに、一抹の不安に呑まれ往生していた所か。
それもこれも、お前が無駄な躊躇を覚えるからだ。
だがもう良い。これで答えもはっきり示された訳だし、余計な焦燥に毛を逆立出る必要も無くなった。
さあ、さっさと行け。
愛しのご主人様は、とっくの昔に、お休みになられているぞ。
“……。”
“……?なんだ。”
“どうし、た……”
どの星の並びだって、只の一つも目にしたことが無い。
故に俺は、この世界はやはり、元居たヴァン川と同じ水を分かつ、地続きな世界では無いのではとの疑念を強めていたのだが。
そうだとしても、そこに私の見出した貴方が輝いていなかったとしても。
満点の空に、貴女の遠吠えが
今度こそ、響いても良いでは無いか。
“……。”
相応しくない。
似つかわしくない。
景色も、季節も、彼女も、そして俺自身も。
何もかもだ。
貴方を迎えた私は、貴方から、今までで最も遠く離れている。
だから、今じゃない。
そんな理想を抱いてしまう。
故にもし、その逢瀬が、叶うのだとしたら。
それは唐突であるのだ。
そうだ。
いつだって、見過ごすのだ。
大事な瞬間に友の見せた、確かな決意の呼吸を。
大切にしなくてはならなかった、貴方の心の動きを。
“……。”
おめかしなんて、俺に何が出来ただろう。
彼女であれば、それは例えば、
子息らに受け継がれることの無かった、美しい雪消の白毛を、
愛すべき夫に隅々まで、毛繕いをして送り出して貰うようなことだろうか。