288. 見るに堪えない私 2
288. The worst of me 2
それから、凡そ1週間が過ぎた。
この土地の気温はじわじわと上がり続け、容赦なく俺の体力を奪う。
ある程度の適応を見せたかに思えた身体だったが、到頭日中に出歩くことを断念した。
殺人的だ、と形容して全く誇張が無い。
あいつが素肌を晒すのを躊躇う理由が、また産まれてしまったほどだ。日除けの為だとフードを目深に被り、Freyaもなるべく日陰から出そうとしない。
しかしその分、夜間の放射熱も大きいものであったことが、不幸中の幸いと言えるだろう。
気温差は不自然に甚だしく、Teusがマントを羽織らずに過ごして鼻風邪を引くぐらいだから、俺にとっては唯一出歩くことを許された時間帯になってしまったと言える。
例の洞穴が唯一の避難所だ。日中惰眠をこれでもかと貪り、その時間帯での活動を余儀なくされている。
元々、夜間に活動が活発となることはあっても、これではまるで、吸血鬼だと思った。
性にあった生活形態なので、構わないのだが。
「そろそろ、交代の時間か…」
日没の時間が、日に日に待ち遠しさを増す。
出るな、と固く禁じられる程、不用意に外の世界を覗く危険を冒したい衝動に駆られる。そんな気分だ。
単純に、暇を持て余していたのだとも思う。
どうしたことか。俺は今まで、人生の殆どを、こうして一匹で思索の転寝に費やして来たのにも拘わらず。
今になって、その悠久の時に、考えに耽りたいと温めて来た命題が浮かび上がって来ないのだ。
これは、魂の劣化であるぞと、危惧して叫ぶ若かりし狼の声も、そこまで耳を刺さない。
何故なら、俺は、間違っていたのだと、自らに示されてしまったから。
貴方が必要としていた自分を、恥ずかしいほどに潔く、履き違えて生きて来たから。
ああ、退屈だ。
俺自身め。
そんなに、彼らに弄ばれるのが、心地よかったのか。
あいつらに悦ばれ、不相応な愛情を理不尽に振り撒かれるのが、そんなに、気持ち良かったのか。
ぐっちゃぐちゃに、護り続けて来た牙城の内を、搔き乱されて、未だに心の整理が付いていない。
貴方と過ごしてきた洞穴と一緒だ。
私は、ずっとそこに、捕らわれたまま。
“…そうかよ。楽しかったかよ。”
情けない程に堕した。誰かが来てくれないと、己の時間を持て余すだなんて。
そう前脚の間に鼻先を埋めて嘆いても、今だけは都合よく、俺をからかう者もいない。
そろそろ、Teus達を休ませてやらなくては。
寝覚めが大層良いせいで、却って眠り足りない気がしていけない。
いつまでもこうしてだらだらと躊躇している方が、俺を誤った思考へ導いてしまうのだ。
腹も空いた。満腹になって転がり、潮風に吹かれていれば、直に眠気も襲ってくるだろう。
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「お、来た来た…おはよう、Fenrir!」
「うむ。おはよう…」
俺が夜型の生活を強いられているのを見兼ねてか、彼の挨拶は最近こんな風に倒錯している。
「…聞くまでも無いが、特に変わったことは無いな?」
「うん。相変わらず静かだよ。」
「時々、冷たい風が吹いて来るから、もしかしてと思うことは、何度かあったんだけどね。」
真っ暗の入り口を覗き込み、彼はそう報告する。
果たして、注意を払うのに値するだろうか。
「そいつは素晴らしい。転送路に任を命ずるには惜しいほどだ。」
「Skaから、何も音沙汰が無いね…」
「便りが無いのが、一番だ。お前自身、身を以て体験しているだろうが。」
「それは、そうだけれど。やっぱり心配だよ。ちゃんと故郷へ辿り着けているか。」
「あいつ、何を躊躇しているのだろうな…」
「と言うと…」
「やっぱり、来ないのかな…?」
お前までもが、左様に俺の顔色を窺うようでは、やってられない。
「Y、Yonahは…」
「それをあいつが、申し訳なく感じていることには、甚だ理解に苦しむ。」
「Fenrir、前に言っていたじゃん?」
「Yonahは…こっちに来るのを、怖がっているんだって。」
「ああ。Skaが、そう言った。Siriusが彼女を護る為に留まったと言う経緯もな。」
「だったら、その想いを、尊重してあげるべきなんじゃないかな…?」
「……?」
「俺がいつ、彼女が応えなかったことに腹を立てていると言った!?」
「でもその苛立っているのは、同じことじゃないか!」
「沈黙を否とさせよとの態度が、気に喰わぬだけだっ!!」
「君が残念がるのが堪らなくて、億劫になっているって、どうして理解できないのさ!?」
「そうやってお前のように、俺を聞き分けのない仔のように甘やかそうとする気遣いにも、腹が立つ!!」
「どうしたのさ……」
「こんな時では、尚更だろう。」
いがみ合っても、虚しいだけだ。
空気を読めない振りをして、果敢にも仲裁になど、割って入ろうとする狼も、此処にはいない。
Freyaは目を瞑って、醜く猛っては弾け飛ぶ吠え声に、耳を傾けているだけだ。
「…にしても、遅いとは、思わぬか。」
「招集には、応じられぬとだけ、伝えに参れば、良いものを。」
「Skaは、そういう奴ではない。お前なら、分かっている筈だ。きちんと理性を感情に、優先させることの出来る長の器を持った狼であると。」
「じゃあ、やっぱり…」
「何か、あったの…?」
Teusは、自らが吐露した不安に火を点けるように、俺へ喰って掛かった。
「俺達と、群れ仲間が、突如として寸断される事態が、無いとは言い切れないじゃないか?」
「であれば、あいつらの責任だ。来客者に不便を被らせたことを詫び、直ちに迂回路を設けるだろう。」
「不正な書き換えで、違う所へ、飛ばされていたり、しないかな…?」
「全盛のお前に出来ぬような芸当が、あいつらに出来ると思うのなら、そう憂うが良い。」
「ヴェズーヴァで…例えばまだ英霊の話が片付いてなくて、彼らが脅かされているとかは…?」
「であれば、Skaは迷わず救助を求め、俺が用意した転送路を使って此方に戻る筈だ。」
「この箱舟が、効力を失ったとは、考えていない。」
「その根拠は…?」
彼にしては、回転が速い。俺が口を開くのを待たずして、自答に至った。
「……その役目を、終えていないから。そう言いたいの…?」
「彼女こそが、招かれざるべき客人だ。その確信が持てていないと、君は…」
「彼女でないなら、それだけの話だ。別の誰かを待ち受け、この罠橋は口を開き続けるであろう。」
「直に、陽が沈む。それまでに、食料を調達してくる。」
「この場を引き払う準備だけ、済ませておいてくれ。」
俺は潰えかけていた篝の火を踏み消すと、尾を翻し、
気分だけは小遣いを握りしめた人間の子供を装いながら、
出店の立ち並ぶ港町の一角へと繰り出していった。