287. 口約束
287. He might promise you the world
“もう、お別れか…”
頭がぼうっとしてしまって、自らが吐いた嘆息が信じられない。
俺の脳は、きっとどろどろに、蕩けてしまったのだ。
肉塊が、春の日差しに当てられて、悪くなってしまうように。
きっと、そう、調子が悪い。
物事に対して、悲観的となれない。
俺は、散々に弄ばれた。
群れ仲間たちが望むような玩具にされ、狩りの対象に仕立て上げられ、島中に響き渡る悲鳴を何度も上げさせられ、挙句の果てに、雨風を凌ぐ毛皮の庇として、余すことなく身を使い尽くされた。
気圧されて、しまったのだ。
彼らの歓待が、満足の行くものとなるように。出来る限り、要求に応えたつもりだ。
俺が戸惑い、時折苦しそうに喘ぐのを、この狼どもは、その耳に都合よく入れようとしない。
そんな輩が、喜ぶ儘に、勢いの儘に、
俺は、何と言うことをしてしまったのだ。そう振り返る赤面の一時すら、与えては貰えなかった。
あっという間の、三日三晩。
ずっと、ずっと。遊び惚けて。
俺はこうして、近づく夜明けの宝冠を、ぼうっと見つめて、横たわっている。
終ぞ、俺はあいつと言葉を交わす余裕を失った。
TeusやFreyaのことなんて、それから、ただの一度も気にかけなかった。
ただ二人は、俺が嬲り者にされる様を見て、さも可笑しそうに笑うだけ。
遠い群衆のぼやけた表情のように、見つめるだけ。
お前達の、お前達の仕業なのだな。
許さないぞ。
よくも、よくも俺を、こんな目に、遭わせてくれたな。
俺を、こんな腑抜けにしてしまったことを。
お前達は、絶対に後悔するのだ。
そうだ。そうに決まっている。
“ありがとうっ!Fenrirさーん!”
“とっても、楽しかった!いっぱい遊んでくれて、ありがと!!”
“今度は、川の向こう側も連れっててね!”
“早く、こっちに戻って来てね?皆、待ってるからね!!”
もっと遊びたい。
帰りたくない。
楽しかった。
ありがとう。
分かっているのか?
それとも、本当に、忘れてしまったと言うのか?
俺はお前達一匹一匹に、残らず死んでお詫びしなくてはならないような借りを、作っているのだぞ。
俺は、’外縁’ にいるだけで、良かったのだ。
それだけで、群れの最下位で、或いは周囲をこそこそと歩き回るほどの存在感で、お前達と一緒にいるような気分になれたのだ。
俺はやはり、ヴァン川の向こうへ、立ち入るべきでは無かったのだ。
何故、そんな軽率な行動に出られた?
俺は確かに、Teusの背後で、あいつを護ってやれたらと願ったけれど。
今となっては、後悔が無いとも言えぬのだ。
‘別世界’ へ、脚を踏み入れたのが、全ての始まりだ。
俺は、我が狼に教えられた通りに。自らが定めた掟に従えば良かったのに。
ちょっとだけ。ちょっとだけ、貴方みたいになりたいなどと。
そんな烏滸がましい虚栄心に魅せられたばっかりに。
でも、それが、一番の皮肉なのだ。
何度目か分からない。
あれだけ、希った理想が、一度は燃え尽いた筈の愛情が。
ぐぅぐぅと燻って唸るのだ。
Sirius、いいえ、Fenrir。
私は、貴方になりたい。確かにそう願いました。
私は、貴方のような狼になれたなら、と。
その為に、十数年をたった一匹で過ごしてきた私は。
誰よりも緻密に鍛え上げた肉体によってでも、脈々と流れる銀狼の精神によってでも無く。
そこから、最も遠く離れた感情によって、実現されようとしているなんて。
笑えません。
貴方が、私になって欲しかったのは。こんなものだったのですか?
貴方が一匹となってからの時間しか、私には見せてはくれなかったではありませんか。
だから、だから精一杯、その続きの夢を見られるようにと。
俺は、片時も忘れず、貴方を追ったのに。
本当に、貴方が見たかった夢を、どうして貴方はずっと。躯の内に、隠し通して来たのですか。
ずるいです。どうしてもっと、早く、私の理解が達する場所で、待っていてくれなかったんだ。
ただ…
ただ、貴方が尾を高々に掲げて率い、共に分かち合って来た、時間の続きが見たかったのなら。
それが、取り返したかったのなら。
俺に、そう言ってくれれば。
Garmなんかじゃなくって。俺にだ。
俺で良かったのに。
群れ仲間の中心で、皆と過ごしたいと。
そう一言、囁いてくれただけで。
俺は……。
こんなに苦しい思いをせずに、済んだのに。
頭が、ぼうっとする。
白昼夢に、駄目もとで伸ばした前脚も見えない。
“Sirius……”
お前が此処に居ない、その理由が、たった今、分かった気がする。
“Ska……。”
“はい、何でしょうか?”
ありがとう。
群れにおける地位を、一時でも、易々と譲ってくれて。
お前ほど、器の大きい狼に会えて、俺は心から嬉しい。
あの大狼の元に、お前の対が居たならば、きっと群れが、一夜にして滅びることなど、無かったろうに。
そんなお前の眼前で、こんなことを請うのは、気が引けるが。
俺は、あの雌狼を、この膝元に召さなくてはならないらしい。
“また……”
“会いに、来てくれるか…?”
“わ、…俺に……。”
“良いんですか?”
分かっている。訝しむのも、無理はあるまい。
あんなに渋り、群れの安全性を訴え、一度きりの邂逅とすることを、硬く約束させたのに。この様だ。
未練たらたらで、箱の奥へと姿を消していく彼らを前に。
俺は、どんな表情をして、泣いていただろうか。
この島の歓待を是非とも伝えるが良い。
誘い合わせて、望むらくは、家族のように。
“つ、連れて来てくれ。”
“……。”
“会いたいのだ。”




