286. 木霊たちの手の内 2
286. Kodamas' Reach 2
数十分も経たずに、へとへとになって帰って来るかと思いきや。存外にTeusは奮闘した。
俺が微睡むだけの時間を走り回るだけの体力が、まだ残っていたのだな。
老兵とは言え中々に侮れん。
「はーっ…はーっ…」
「こんだけ走ったの、久しぶり、かも…」
右の額からぼたぼたと垂れる汗に触れると、羽織っていたマントの留め具を外して肩を揺らす。
「もう、いらないや。ずっと動いてなかったから、あまり感じていなかったけれど、ここはやっぱり暖かいね。」
暖かい?暑いの間違いじゃないのか。
そう嫌味を吐いてやりたかったが、彼の溌溂として豊かな表情に、気圧されてしまった。
「…だろうな。少しは良い運動になったか?」
「明日あたり、身体が悲鳴上げてそうだよ!あー、楽しかったけど、しんどかった……」
「看病は、してやらんぞ。手の施しようが無い。」
「どうしよう。急にベッドから起き上がれなくなったら。」
「知るか。年寄りの冷や水なんぞ。」
「そんなあ…老い耄れは、大事にしてよ…」
「まあ良いや。ちょっと休憩…」
Freyaにただいまと微笑み、俺と彼女の間に設けられた隙間によいしょと腰を降ろすと、後ろに手を突いて辺りを見渡した。
「どうだ。此処は…観戦席は、やはり今でも、お前にとっては落ち着かない場所であるか。」
「うーん、そうだねぇ…。」
「前よりは、好きになれたかもね。この場所も、ちょっとは、寂れてくれたみたいだから。」
「栄枯を語るのに、相応しいと思うよ。」
「……。」
「…ならばお前を誘ってしまった俺も、幾らか救われたかも知れぬ。」
思わぬ返しに唸っている場合では無い。
彼の表情から、余計なものを読み取ってしまう前に、俺は目を逸らす。
「うん。君に誘われた時は、正直ちょっとびっくりしちゃたけど。」
「…柄にも、無かったか。」
「そんなこと無いよ。ありがとうね。」
「ナイスアイデアじゃないか?…俺だけだったら、彼らを此処まで楽しませてあげることは、出来なかったよ。」
「そうだな。あんなに、はしゃぎ回るとは、俺も思っていなかった。」
眼に鮮やかな宝球に、彼らはひたすら群がるだけかと思えば、群れで優先的に獲物にありつく狼がそうするように、ぱっと口に咥えて局所的蠢きから抜け出すことで新たな展開を齎す、中々な語り手であった。
親友の小枝を奪い取る喜びを、誰もがきっと、覚えている。
「お前が、身を削って遊びに入ってくれたのが、よっぽど嬉しかったんだろうよ。」
「俺じゃあ、全然。太刀打ちできなかったけどね…」
そう笑って、左手に纏っていた籠手の留め具に指を掛ける。
その拘束具は、お前の本来の動きを阻害していただろうか。
甲冑にマントを身に纏った内側は、蒸れて仕方が無かったのだろう。
Teusは脚のレギンスも同様に脱ぎ捨てると、自由の身を得たぞとばかりに安堵の溜息を吐く。
「…足の速さも。制空権も、機転まで、何もかもだ。」
「善戦していたように見受けられたがな。狼相手に、良く保った方だ。」
「まあ、代打は務まったんじゃない?我ながら、ほんとに頑張ったよ。」
「後は、任せたからね。Fenrir。」
「…いや、俺は良い。」
「何を遠慮する必要があるんだよ?」
「俺が参戦したならば、均衡が崩れてしまう。」
「でも…」
「これで良いのだ。俺は…この光景が、見たかった。心の底から。」
「本当に?」
「ああ。ずっと、こうして眺めていたいぞ。日が暮れるまで、こうしていたい気分だ。」
「ふーん…」
Teusは、暫くの間、狂ったように尾を振り回す群れを一緒になって眺めていたが。
やがて、ぎこちない動作で身を起こし、もう一度汗を拭った。
「あー、喉乾いた…この辺りって、水飲み場、あったっけ。」
「覚えていないか。此処に着く直前に、浅い小川を横切っただろう。」
「そうなの。全然、見えてなかったよ。特等席からは。」
すぐそこだ。俺は顎をしゃくって、今来た西門を遮る石塔を睨む。
あれは、一人でに籠に明かりを灯すか。
リシャーダの街並みと同じように、この集会場と思しき場所も、ミッドガルドの都市部に弱い結びつきを持っているのだろうか。だとしたら、それは何処だろう。ふとそんな疑問が湧いた。
「……なんだ。その、Skaがなでなでを要求している時のような顔は。」
「あ、わかる?やっぱり。」
「…いや、分からない。」
「何だよ、連れてってくれないの?」
「直ぐ近くだぞ。誇張無く、目と鼻の先だ。」
すると今度はどうだ。両手を伸ばして、抱っこのポーズだ。
「歩けない、かも。」
「…?」
「どうした、怪我でもしたのか?」
「いや。外しちゃったから。防具。」
「……。」
故意犯、だよな。
「本当に、歩けないのか?」
「うん。無理だよ。俺が着けずに歩いてる所、最近で見たことある?」
「……。もう一度、身に着ければ、良いのではないか?」
絶対に、貴様の我が儘など、聞き入れてなるものか。
少しばかり、背中の上での小言を根に持っているのだと言うことを、お前は鋭敏に察し猛省すべきだ。
だいたい、お前の首根っこを掴むのは、狼達のように容易では無いのだぞ。
お前が冗長に纏っていたそのマントがあるから、どうにかして拾い上げられていたものを。
「えー、やだよ。汗べっしょりだもん。気持ち悪い。服を着たことが無い君には分からないだろうけど。」
こいつ。俺の苦心も知らないで、悪びれもせず…
「老いた皮膚は、さして代謝が良さそうには見えないが…?」
“フシュッ……。”
「ん……?」
久方ぶりに繰り広げた、彼との攻防に夢中になっていると、俺は視界の端で、じっとこちらを見つめる存在を捉えた。
“……。”
“なんだ。何か用か。”
Skaの眷属では無い。
面識も臭いも薄く、普段、俺に近寄り難さを覚えていた同族であると推察された。
「おい、Teusよ。お前にお客さんが、いらっしゃっているようだ…」
「え、俺…?」
「何言ってるのさ。どう見たって、Fenrirに用事じゃないか。」
「いや、思い当たる節が無い。ならばFreyaか。」
「違う違う。ほら、見て!」
わあ、と言う感嘆の声に、俺は思わず振り返る。
「……?」
見れば、彼の姿勢は、変わっていた。
“……。”
‘構え’ ている。
いや。より、正確に訳すのなら、’誘って’ いるようだ。
その狼は、目を爛々と輝かせながら、前脚を肘が付くまで伸ばし、尻を高く突き出しながら姿勢を低く降ろしていた、じっとしていたのだ。
俺が狼の言葉を忘れてしまっていたなら、彼はこう持ち掛けて来ているのだと気が付くまでに、Teusよりも長い時間を要しただろう。
‘捕まえてやるぞ。’
“……。”
“ほんき、か…?”
ああ、恐ろしいことだ。俺は、あろうことか、狼に獲物と見立てられてしまったらしい。
追いかけっこの相手をしろと、そいつは真面目な顔つきで、仲良しの兄弟狼ではなく。
目の前の大狼に要求しているのだ。
自分が、ぱっと飛び掛かるのに、恰好の隙を見せて欲しい。
遊び相手になって、と。
「何しているのさ、皆、君のこと待ってるじゃない。」
「……。」
ボールは、彼らにとっての獲物として、やはり不足であったらしい。
気が付けば、俺は、観戦席の一帯を陣取る観衆から、舞台へと引きずり出される剣闘獣へと、立場を変えさせられてしまっていた。
「……み、水飲みは、行かなくて良いのか。」
「しょうがないから、此処で干からびてる。」
「…暑いぞ。俺も、水が飲みたい。」
彼は、さもおかしそうに、俺のことを笑った。
それだけ、俺の顔が、引き攣り、怯え、絶望に打ち拉がれていたことの証左だ。
「行っておいでよ。」
「俺は、ここで、君のことを応援してるからさ。」
「…良かった。俺が見たかった景色も、此処にあったみたいで。」




