284. 巣穴からの総出 2
284. Empty the den 2
“あー、その…”
牧羊犬など、取るに足らぬ雑事であると、甘く見ていた。
狩ることなく、生け捕りにするような力加減や、
衆愚を操る為の効果的なひと吠えなど、勘所を知る由も無い。
俺では放牧の民ですら、言うことを聞かせることは出来なかっただろう。
増してや、盛んな狼たちとあっては。
“良くぞ参った…”
彼らは自分が用意した歓待に目もくれず、ただ俺だけを標的に絞って、周囲を取り囲もうと視界から左右へと掃けていった。
“ほら、そこにリンゴが山積みになっているだろう。冬を終えるまでは口に出来ぬような食べ物を、ささやかながら、用意させて貰った…”
それを見越してのことだ。俺の尾先と、鼻先には、それぞれ魅力的なご馳走の山を、誘導の為に積んである。
彼らが俺を包囲し、身動きを取れなくさせる作戦が、成就することは無いだろう。
“お前達の慕う主は、直に目覚める。来客をお目にかけようと、番を率いて、此方を訪れるであろう。”
勿論、聞いちゃいない。
そのうちの何匹かが、その誘導に従わずに正面の壁にぶち当たるような事態も、想定済みだ。
実際、最大で、集団の1/3程が、目の前の毛皮にしか眼が行き届かずに、このような事態に陥る可能性を考慮はしていた。
そこで、最後に敷いた防御網が、この撒菱になるという訳だ。
食べ物が齎す足止めの効果は、はっきり言って、彼らの胃袋の充填率に大きく依存する。
従って、狩りを終えた群れに対しては、別腹と言えど、デザート大作戦は余り期待できたものでは無いと知っていた。
不本意ではあるが、人間様の力を借りざるを得ない。
“……?……?”
何のことは無い、昨日の食べ残しだ。
彼が俺の見回りに対する労いの言葉として用意してくれた。
行儀が悪いとは言うまい。捉えた獲物は、そうやって数日かけて、骨まで喰い尽くされるものだ。
尤も、Teusが拵えた料理の味を知っている者は、Skaと、その近しい群れ仲間だけに限られるが。
痕跡として見るなら、それは純粋な食料よりも遥かに効果的に彼らの鼻を刺激する。
そら、うまく行ったようだぞ。
先陣は、直ちにその異変を鋭敏な鼻先で捉え、僅かに視線を水平から落として減速した。
何なら、そこは二人が焚火を見守りながら一夜を過ごした場所だ。
彼女の臭いも、お前達なら十分に嗅ぎ取れるのではないか。
“何してるのっ、邪魔よっ!”
“きゃぅっ!?”
あっ……。
しかし、後続の波が、余りにも強力であったようだ。
僅かに、だが確かに彼らの記憶を刺激したはずの臭いを、もっとよく嗅ぎ取ろうと鼻先を地面すれすれまで首を垂れたAroだったが、まともに尻を頭突きされ、滑稽な程に子気味良く転んでしまった。
容易くDireは眼下の毛玉を踏み潰し、股の下へと追いやっていく。
身体ばっかり、一匹前になっても、遊び足りなさが、その絡みと 敏捷さには現れている。
というか、雪が足を埋めぬ世界に、こいつらの四肢は少々出力の調整に難儀しているようにさえ見えるが。
“あっ、Fenrirさんっ!!えーっと…ごぶさた、してますっ!!”
大丈夫、なのか…?
“えっ?あ、そうだっ、忘れてた…!!”
まあ、良いか…
“Fenrirさーんっ!そこにいるんですかーっ?”
いや、そうでも無い、か…?
縦長の毛皮の集合体は、とても群れを成して一匹の大狼を形作ったようには見えない。
しかしそこは大家族と言った所か。耳の方向こそ、千差万別に周囲を向けていながら、進む方向だけは、一丸となって、外れる者がいない。
駄目だ、前方をいち早く確認しようと左右に流れて行った狼たちもだ。
こいつら、俺の仕掛けた歓待に、目もくれない。
“ああ……”
それだけ、俺の図体は、目と鼻につくって訳だ。
“も、もう一度言うが、そこにお前たちの為の、食事を…”
断じて、俺に逢いに来た結果では無い。
“き、聞こえている、か…?”
“わぅおおおおーーーーっ!!”
“うぉぉぉぉーーー……”
“あぅおおおおおおおーーーーー……”
“……。”
突如として始まる、雄叫びの大合唱。
応えぬ無礼も、皆お構いなしだ。
“一番乗りっ!!”
こうして俺の横っ腹は、敢え無く無数の鼻先を突き立てられることとなる。
“ふぐっ……”
何故か、くすぐったさが急所に達したのか、盛大にくしゃみが出そうになった。
“ふ、ふっぇっう……”
噛み殺そうと歯を食いしばって、これが情けないながらも、俺の返答の吠え声だ。
それに対して、彼らの興奮は収まるところを知らない。
俺は当初の予定通り、しっかりと全身を包囲されてしまった。
牧羊犬どころか、将軍を補佐する類の参謀も向いていないと思った。
堪らず立ち上がって、迂闊に狼達の猛攻を退けようとしてみろ。
俺は、お前達が小さい頃を相手してきたから、知っているのだ。
巨大な幹を目掛けて一目散に走り出し、俺は二度と地に足を着けることを許されなくなってしまう。
“はぁーーーーっ……”
“久しぶりですっ!Fenrirさんっ!!元気に…してましたかっ!?”
“おお、久しいな…Buster…”
“わっ!僕のこと、覚えていてくれたんですねっ!!”
“……勿論であるとも。お前こそ、息災でやっていたか?”
“それはちょっと、よくわかりませんが、皆元気いっぱいですよ!!”
“うむ、それは良かった……”
“……?”
何だ、あんまり眼下に、集まって来るんじゃない。
そのスペースは、俺が頬を広げて地面にへばりつく為の場所であるのだ。
両脇に添えられた前脚で、分るだろう?
違う。そこはお前たちが頂上へ登り詰める為の遊具では無い。
“おい、聞いているのか…?”
何だ、何を要求している。
“……ああ、分かった。分かったよ…”
結局、俺は何もかも、彼らに対してやりたく無かった、あらゆることを、やらされてしまうのだな。
“どうも…会えて嬉しい。心から、歓迎するぞ。”
俺は毛皮の濁流に鼻先を突っ込み、かき混ぜるようにして群れを横切っていく。
一匹、一匹の毛皮に向って、鼻先で接吻を始める丁寧さがあれば良いが、そんなことをしていれば、Teus夫妻がもう一度眠りについてしまう。
“そうか、お前も、来てくれたのか。よく勇気を出してくれたな…”
“おお、元気そうで何よりだ。ああ、ちょっと、舌で鼻を舐めても良いか…”
そんな挨拶を交わしつつも、俺はLyngvi島へ訪れた狼の総数を把握する作業を直ちに開始することを忘れなかった。
正確に、一匹の誤差も許されてはならない。
そして、その個体全体が識別できるのなら、有事の際に尚のこと良いのは明らかだった。
誰が逸れてしまったのかが分れば、群れの協力も、求めやすい。
“ふむふむ、全体の、凡そ2/3ってところか…?”
“これまた、大所帯を連れて来たんだな。Skaよ。”
俺はようやく、ありったけの毒を吐くに相応しい狼に巡り合う。
“えへへ、これも、Fenrirさんの人望が厚いからですよ。”
“あり得んな。これは的確な生存本能だ。
お前と一緒にいた方が、そりゃあ越冬には有利に働くだろう。”
“そんなことは、させません。僕だって、残してきた仲間が心配ですから。此処での滞在は、長くても3日に、させて頂こうかと。”
“ふむ、そこまで気が回っていない訳では無いと。安心した。”
“良いか、Ska。帰ったら、そいつらを食事の際にでも、誰よりも、気にかけてやれよ。”
“その、留守番組は、言わば怖がったのだ。彼らの本能的警戒を、お前は誰よりも尊重すべきであって…”
俺は説教じみた文句を舌から垂らしかけたが、
いつまでたっても解消されない違和感に、次の言葉を横取りされてしまう。
“しかし、あれだな…”
……。
やはり、そうだ。
遠い目で幾ら見渡しても、見つからない。
遠吠えを俺から始めることで得られる結果は、より空虚なものであっただろう。
“あいつは…”
“Siriusは…来ていないのだな……?”