284. 巣穴からの総出
284. Empty the den
俺が、初めて故郷の外の世界の降り立った時、果たしてどんな風に振舞っていたように見えただろうか。
そんなことを考えていないと、俺はあいつに寝ずの番を強いておきながら、知らぬ間に夢の世界で雪原を駆けまわってしまいそうだった。
もしかすると、あと数分もしない内に、彼らの元気な吠え声が周囲を埋め尽くすのでは無いか。
そんな第六感的本能は、少しも髭先に媚びることをしなかったけれど。
俺は、眠ってはならないのだ。
“………。”
神様たちには、果てさてこんな怯えようを晒す捕らわれの獣に、ある種、父性にも似た庇護欲に狩られなかっただろうか。
いいや、違ったよな。
あいつらは、俺に対して、片時も武器の切っ先を降ろそうとはしなかった。
最後まで、俺が言い伝えられた通り、本当に、何かよからぬことをしでかすと、信じ切っていたのだ。
一方で、手負いの獣は、牙を剥くそのタイミングを、履き違えていたんだがな。
全く、俺は誰に対して、良い仔であろうとしていたのだ。
今となっては、当の本人にさえ、分りそうも無い。
何のことは無い。
俺は全身を痛めつける為だけに巻き付けられた棘付きの鉄鎖を剥がされ、寧ろこの檻を一生の住処とさせて貰えないことに心底絶望していたと記憶している。
足取りは、それはもう、吹きすさぶ春風に折り倒されそうな小枝のように震え。
抜け出た先を処刑場と、信じて項垂れることさえ、許しては貰えなかった。
それは今振り返ってみれば、健全な狼が、野生に返されるような反応とは、程遠いに違いなかった。
振り返る事すらせず、一目散に。そんな風に逃げ出せたなら、俺の最期を心配するようなお人好しも、現れることは無かったのかもな。
“……来たか。”
彼らは警戒心を恐怖に置き換えることなく、慎重に鼻先を暗闇の裾から見え隠れさせ、新しい世界に受容されるべきか否かを見定めかねているらしかった。
そうだ。それで良い。
好奇心にだけ突き動かされるような、無邪気の友であってくれるな。
十分に納得し、冒険心に満ちたのなら、その姿を薄暮の元に晒しておくれ。
その背中を此方から押すのは、野暮と言うものだ。
“……?……?”
此方から出迎えの言葉を送ることは憚られた為、俺は、何回も目を半分開き、
おお、よく来たなと口を開きそうになって躊躇うことを幾度となく繰り返す。
“……!?”
一匹が、もう少しでその顔を見せてくれようかと言った所だったが。
そいつもびくりと身体を跳ね、素早い身のこなしで踵を返してしまう。
残念だったよな、目の前に広がる景色が、こんなんじゃあ。
強がらなくたって良いのさ。
お前達が佇むべき景色は、青の世界を取り除かれた此処じゃない。
雪国へと、彼の故郷へと、どうか引き返し給えよ。
がっかりだったよな、初めに出会える相手が、あいつじゃなくってさ。
生憎、夜間は俺が番狼の役を演じることになっているのだ。
もうちょっとで、起床するのだがな。
柄にもなく、あいつが早起きになってくれたから。
どうだ?
だからもう少し、その舞台袖で、台詞を轟かせるその瞬間を思い描きながら、どきどきしてみないか?
俺の方はと言うと、はち切れそうで。
代わりにその暗闇の奥へと引っ込んでしまいたいぐらいなんだよ。
“Fenrirさんだっー!!”
うう、と思わず喉奥で声が出る。
吠え声だけで、懐かしい。
俺は、群れを離れる一匹オオカミとかに、情けないほど向いていないのだ。
第一声を、他の狼に代えさせてやるなよ。Ska。
Busterか。そろそろ、父親と違った風格を纏い始めたようだな。
“ほんとに?いる?いるの?”
“Fenrirさん、いるの?”
おお、此処にいるぞ、淡麗な母親の顔立ちをますます湛えるようになった娘さんたちよ。
“まじかよ、ほんとにあの、四角い巣穴の中に隠れてたんだ…”
“お邪魔しまーすっ…って…”
“……っ!?”
“なっ、なんだこれっ!?”
もう身体の半分ほどを日陰から晒したところで、彼らは眼下の異変に気が付いたのか、ずるずると後退る様にして、世界が変わってしまった事実を拒絶した。
無理もない、寧ろ当然の反応であるにも拘らず、俺はその撤退が自分に対して向けられたような錯覚を覚えて心地よく傷心した。
良くも悪くも、Skaは飲み込みが早い。
世界を容易く変えてしまう神様に身を委ねる信仰を、俺やTeusは見習うべきなのかも知れない。
“えっ……?”
“お、外…?”
“…巣穴の別の入り口に、出たのかな…?”
“でも、雪が、無いよ…?此処は、お外じゃないよ。”
“じゃあ…”
“此処は…どこ、なの…?”
“……。”
口々に囁かれる、当然の困惑と推測。
俺は父親が、群れの長が、仲間たちに敢えて正しい移動先の情報を伝えていないことに憤慨した。
毛皮から嗅ぎ取れる、向こう側の異質さを、来てからのお楽しみだとはぐらかして、どのようにも説明しなかったのだ。
彼らは、言わば迷い仔の群れ。
一匹狼よりも、遥かに脆い冒険者だった。
“Fenrirさんっ!Fenrirさんっ!!??”
“此処に、いるんですよねっ!?”
それを、浮き木に取り残された、金槌の人間に喩えてみると。
唯一巡り合えた取り付く島へと渡り移るのに、途轍もない勇気が問われることだろう。
寸前の躊躇いが大きければ、
その勢いは尚更だ。
ヴァン川の濁流よりも、凄まじい。
“うわああああっーーーーーっ!!”
彼らは到頭、堪えきれぬ恐怖を弾けさせ、唯一この世界で確かな足元となってくれる、俺目がけて、一目散に駆け出した。
“っ……!?”
その灰色の波に、俺は思わずぎょっと目を見開く。
後続が、思ったよりも多いぞ。
家族以外にも、けっこういるんじゃないのか?
“ま、待て……”
ぎりぎち、立ち上がって、逃げ腰になるような愚行に及ばずに済んだが。
“Fenrirさああああああああーーーーーーーんっっ!!”
彼らの、緊張で引き攣った笑顔は、
群れ仲間との合流による安堵で次第に解けて行くのが十分に見て取れたのだ。