281. 隔意は何処へ 3
281. Unreserved 3
“…おい、Ska。”
互いが一言も狼の言葉を発しなくなってから、数刻も無かった。
例の中央競技場の砂を踏みしめる感触に、幾分かの湿り気が感じられた、その矢先である。
ある、閃きが、頬を撫でた。
“……。”
彼は生意気にも、俺が眼下に視線をやっての問いかけに、反応を示さなかった。
自分に対して示された残酷な運命に、ただ打ち菱がれている、と言うよりは。
Teusの顔面を舌で愛撫するのをやんわりと断られたことに対するショックが後を引いている程度にしか思っていなかったが。
“聞いているのかっ!?被害者面するのも良い加減にしたらどうだっ!!”
“……僕、帰るの…明日じゃ、駄目ですか…?”
まだそんな寝惚けたことを言える立場にあったか。
お前の到着が遅くなればなるほど、無謀さと勇敢さを履き違えた若狼が、こっそりと暗闇の中へ飛び込もうとする危険が増すのだぞ。
そうでなくとも、この乗り物。
…思ったよりも、’遅い’ようだ。
“記憶がはっきりとしていないのであれば、寧ろ答えずにいてくれ。”
“お前が、そのトンネルの向こう側に向って、帰還を果たしたことを伝える為の遠吠えを張り上げたのは、いつ頃だ?”
“……。”
彼は無礼を承知でじっと自分のことを見つめ、程なくして不貞腐れたように答えた。
“いつって、そりゃあ、彼方について、程なくです。みんな、直ぐに呼応してくれましたよ?”
“……。”
それは。
それは、おかしい。
“早朝……と言うことか?”
ヴェズーヴァで聞かせてくれた、薄明の遠吠えが、此方の日没に聞こえている、だと?
見逃す訳には行かない。
俺達がようやくと見出した事実と、異なる揺らぎを見せたのだ。
それは、聞いていない。
時差が発生しているというだけで。
時間的遅れが、発生することは、全く以てあり得ない。
この遅延は、何だ?
二つの世界で、同じ時間が流れているのでは無いのか?
同じ空で繋がっているのであれば、そんなことは、転送において起こり得ない筈だ。
“異なる、世界……”
余りにも稚拙な、結論の示唆。
そんな発想に、お世辞にも寒冷な夜空の下とは言えない毛皮に、鳥肌が立つ。
ひょっとして、此処は、アースガルズでは無いのか?
ヴァナヘイムとも、地続きとなっていない、全く異なる地平。
言うなれば、ミッドガルドに構えられた、神々の拠点であると言うような仮説は、少々突飛であって、俺自身の発言で無ければ、鼻で嗤うようなそれだろうか。
分からない。此処が、神々の住む世界線とは、幾らか位相的距離を伴うものであるのなら。
それだけの遅延が、隔たりを飛び越える為に生じることはあり得るのか?
“Fenrir…さん…?”
“行くぞ…直に、夜の帳が降りる。”
この知見は、Teusに漏らすな。
未検証の仮説が独り歩きしては、面倒だ。
ここぞと言うときの為に、大事にとっておきたい。
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「えー?良いじゃないか。連れてきてあげなよ!!」
“そうですよねっ!Teus様なら、そう仰って下さると信じてました!!”
そうして何事も無く、翌朝になってみれば、俺は四面楚歌だ。
皆がみんな、俺のことを嫌い、この世界から退けようとしている。
そんなの、昔から、仔狼の頃から、分かっていたことじゃないか。
今度は俺が、そんな風に、耳と尻尾を萎れさせてみても、どうやら無駄であるらしい。
リシャーダとヴェズーヴァの間での、群れの往来を許可する。
そんな結論に至る自然な理由など、有って良いはずが無い。
この意見に賛同してくれる友は、嘗て一人はいたはずなのに…
「勿論、Skaが本当の意味で、幸せに暮らせることを優先したいとは思っているよ。」
初め、彼はしっかりと芯のある発言で、俺を安心させかけた。
「だから、Skaに会えなくなっても、仕方がないという考えではいるよ…」
勿論辛いけれど、群れが危険に侵されるぐらいなら、一切の往来を禁止するのも辞さないつもりだと。
しかしそうすれば、強力な味方を引き入れる為、Skaはいじける。
“だったら、僕は帰りませんっ!”
捕まえられるものなら、捕まえてみてください、などとほざくので、
俺は彼の首根っこを口に咥え、ありったけの憎しみを超えて唸り声を聞かせてやる。
「グルルルルゥゥゥゥッ……!!」
“ひぇぇっ…”
「ま、まあまあ…」
「どうかな?Fenrir…」
「君の力で、召喚と転送の儀を、彼らの為に執り行ってあげられない…?」
Teusは自分が無力であるのを良いことに、無責任な提案を持ち掛ける。
「それは余りにも負担だ。」
俺にとって、では無いぞ。
皆が皆、Skaのように、転送の衝撃に耐えられる訳では無いのだ。
「そ、それは確かに…」
「うむ。お前自身が、一番身に染みて分かっていよう。」
「そう、あの転送路の謎に迫る為には、お前が重要になって来る。」
「……と言うと?」
「今だから、言わせて貰う。」
「何故、お前にとって、Lyngvi島への到達が、今までに類を見ない程、負担の少ないものとなった?」
「え…?」
「それは…何でだろう…?」
彼の表情は、突かれた論点に、心底戸惑っているように見受けられた。
気付いて欲しくなかった痛点、という風に映る。
やはり先の話は、無駄に推論の裾を広げずにおいてよかった。
心の中では、それだけ安定した、異世界への転送があり得るだろうかと訝しむ。
「安定性が、関わって来るとか、そういった文献を聞きかじったことも、無いのか?」
「あー、なるほどね。…確かに、そう言ったことは…考えられるかも。」
「でも、Fenrirが俺に対してかけた追放呪文は…申し訳ないけれど、俺にとっては、かなりしんどかったよ。」
Skaの援助なしでは、とても歩くことが出来なかったくらい。
ああ、でも分からないな。
あの時も、死にかけていたっけ?
「信じて貰えなくて結構だが、必要に迫られ、急遽執り行った儀式であるのだ。送り届けるというよりは、投げ飛ばすぐらいの乱暴さだっただろう。」
「この転送路がそれほどの安定性を保って、今も尚、動き続けている…」
「理由を突き止めることは、’未だ招かれざる訪問者’を確かめることと同値だ。」
「それが、急務であると考える理由は…?」
「それは…」
「それは、はっきりと言えない。」
お前が、不自然な挙動を示した為だとは、当然言うつもりは無いとも。
「だが、これは明らかに適切な使用方法ではあるまい…?」
「そこを、お願いだよ。Fenrir。」
「別に、常時解放して欲しい訳じゃ無いんだ。」
「聞いてないぞ、お前がSkaに感情的に肩入れするなど…」
「‘君に' 会いたいって、言っているんだろ?」
「……は?」
それが一度叶えば、きっと満足するだろうからさ。
あの森に居を構えていたときと一緒さ。
俺が家族を連れて来たみたいに。
遊びに来たいって。
「それで、弱みを突いたつもりか…?」
此処は、断じて俺の縄張りとなり得ないぞ。
「そうさ。だって俺のお願いだったら、聞かないでしょ?」
「くそが…」
「君だって、会いたいんじゃないの?」
……。
“Ska、今すぐこの島から出ていけ。”
“え……?”
“言い方に、棘を感じるのですが。”
“さっさと出ていけっ!!”
“うぁっ…!?”
俺は、血反吐の如く口元の毛玉を吐き捨てる。
“本当に、此方に来るつもりがあるのか。”
“覚悟のほどを、確かめてこい。”
“Fenrirさん……!?”
“俺が動けないんじゃ、仕方無いだろうが。”
“ああ…最悪だ。最悪だ、くそ…”
ああ、いらぬ結びつきが増えすぎた。
招かれざる客とは、あいつらのことだったのか。