281. 隔意は何処へ 2
281. Unreserved 2
“お待たせいたしました、Fenrirさん。”
洞穴に差し込む僅かな逆行を背に受け、彼の表情は伺い知れない。
しかし、酔いは十分に醒めたようだな。
あのリンゴには、お前を腑抜けにする弱毒が盛られていたのだろうよ。
たっぷりと惰眠を貪り、世界を渡る旅路の疲労を癒せば、
お前は忽ち、彼が認めた賢狼の血統だ。
“Teus様より、宵時に参上致せと…”
そのように、あいつに伝えた事実は無いが。
俺達だけの時間を設けてくれた気遣いには、感謝しなくてはなるまい。
“生憎だが、此処にはリンゴの一つだって、用意していないぞ…?”
“…僕は、ご褒美が欲しくって、貴方の元へ訪れたんじゃありません。”
“ふん…”
“悪かったな。それくらいしか、歓待の手段が思い浮かばなかった。”
あいつの耳に入れたくない話の一つや二つ、あっても良い懐の広さよ。
或いは、この狼。既にお前の息のかかった盗聴の鼠か?
だとしても、此方は望まぬ招待にただ当惑させられている、哀れな一匹の迷い仔に過ぎない。
こいつだって、群れ仲間と一時的に引き裂かれることを余儀なくされた、犠牲者なのだからな。
“お力になれるか、分りませんが。僕に報告できることは、あるでしょうか…?”
“……。”
“良くぞ、参った。”
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“ささ!どうぞ、匂い嗅いじゃってください。”
彼は、Teusであれば思わず笑顔になってしまうだろう仕草で、目の前にごろんと腹を見せて転がった。
何故、そのような行動に至ったかは想像に難くない。それが一番、手っ取り早いと心得ている。
しかし、俺はそれを是とせず、物憂げな唸り声を喉奥に滲ませて立ち上がる。
“ってあれ?良いんですか…?”
俺はSkaを、洞穴の奥へと招き入れることをしなかった。
縄張り意識がはたらいたからなどでは無い。
元から、日没までにはリシャーダへ戻るつもりだった。
こいつがやって来るのが分かったから、到着を待つことにしただけのこと。
代わりに道中を、思索の時間に費やせば、二人が寝静まる頃には、幾らかまともな結論が出せるだろう。
難しいようなら、こいつとの与太話も延長戦だ。
“遠慮しておこう。望郷の意に、心を搔き乱されてしまいそうだからな。”
“えー、喜んで下さると思ったのに…”
“皆の臭い、いっぱい僕の毛皮に、詰まっていると思うんですけど…”
そう。群れの無事を確かめるのに、これほど素晴らしい手段は思いつくまい。
“ならば、猶更だろう。”
“次にみんなの元へ帰る時は、Fenrirさんの臭い、お土産に貰って行っても良いですか?”
“……好きにしろ。とでも言うと思ったか?”
“お願いです。皆、寂しがっていますよ?”
“……。”
“あ、そう言えば!”
“僕らのお返事は、聞いて頂けましたよねっ!?”
“…あ…?ああ…”
“しかと、届いていたぞ…”
“良かった!山の向こうにいるように、僕らは繋がっているのですね!!”
“……。”
“それで、彼方の様子は、どうだった?”
“あっ、えっとですね…”
日は完全に傾き、二匹の身体は濃淡を失った影へと姿を変える。
それでも殆ど迷いなく行く先を選択できるのは、この獣道が、元は遊歩道として設けられていた為だろう。
周囲への警戒を払う必要性が薄いこともあって、俺達は気楽に会話を交わすことができた。
“ほう…”
彼のトロットが、出来る限り忙しないものとならないよう、ゆったりと四肢を振って、耳を傾ける。
まずは彼自身、例のトンネルを潜り抜けた時点では、目の前の明るさが此方と似通っていたせいで、違和感には気づけていなかったと言う。
再会を喜び合い、取り戻した日常に我を忘れて、毛皮を擦り合う。
そうしたやり取りが一頻り行われ。皆が、自分の思う行動とすれ違ったのだ。
寝床を拵えたのを、目を丸くして眺め、初めて辺りを見渡して悟る。
ちょうど、リシャーダで夜明けを迎える頃に、ヴェズーヴァでは日没の刻が訪れていたと。
“時差、って言うんですか…?初めて、聞きました。”
“うむ。殆ど朝夕が逆転するということは、世界の反対側、ということになるがな…”
“そ、想像もつかないですが…とっても、とても遠い場所なんですね、此処は…?”
“念のために確認だが、お前がもう一度、箱の中を進んで行った時間帯だが…”
“はい。その次の日、太陽が沈む前です。”
それからまた夜明け前に、Skaがリシャーダの地を再び踏むことに成功した、と。
“…。それで、お前が一匹で此方に再びやって来た経緯を聞かせろ。”
“そう。それなんですが…”
“まず、群れの方で何かあったとかでは、無いです…”
そうでないと、困るぞ。
お前が群れの危機を差し置いて、主人との幸福な時間を享受するようでは、そちらの方が由々しき事態だ。
“ええ。それにヴェズーヴァはひっそりと静まり返っていて。僕らがこの島へ旅立つ前のような、騒がしさとかは、完全に消え去っていたように思います。”
“そんなことを聞いているのではない。Teusが忠告していたのを聞いていたかは知らないが、お前のその行動は、相当な理由が伴わなければ、軽率であると…”
“はい。それは勿論、分かっています…”
“でも、どうしても相談したいことがあって…”
お前、俺達がお前を里に返した理由をまるで理解していないようだな。
俺や、Teus夫妻に依存し切っている。
これは紛れもなく、群れの弱体化に繋がると、散々警告してきたものだ。
“僕がもう一度此方へ戻って来た理由は、他でもありません。”
“Fenrirさんにお願いがあって来ました。”
何かあれば、群れから離れた狼に意見を求めようとするリーダーが何処にいる。
Teusに亡き恩人の影を見出すことを悪いとは言わないが、彼の力になることばかりを考え、結果としてお前は…
“僕の仲間も、連れて来ても良いか、Teus様に頼んでくれませんか?”
“……。”
“あの通り道、使えると、思うんです…”
ほら見ろ。碌な思考に辿り着かない。
余りにも安易で、先を見通す思慮に欠けている。
“お前な…”
“先も言いましたが…皆、寂しがっているんです。”
“Fenrirさんの遠吠えを、お聞きになりたいと…”
“……それで満足するなら、喉が張り裂けるまで謳ってやる。”
“ううん、そんなんじゃ嫌です!そうじゃなくって…”
“お願いです。分かってくれませんか…?”
“立ち止まる暇はないぞ。直に陽が登る。”
“…Teusの為に態々危険を冒して来た勇気は称えよう。”
“だがお前には、直ぐにヴェズーヴァへと戻って貰う。”
“そんなっ…僕は大丈夫です。無事に行って、帰って来れたじゃないですか。”
“お前の往来は、好きにするが良い。”
“だがお前は、群れにそのような旨の提案をして来るよと、伝えたのだろう?”
“そ、そうですけど…”
“それは失敗に終わったと打ち明けるのだ。そうでないと、お前のことを心配して、一匹でも潜り込んできたら、堪ったものでは無い…”
“番を連れて来てでもしてみろ。俺が牙を剥いて、追い返してやるからなっ!!”
“……。”
“分かりました…”
“そんな風に耳を萎れさせても無駄だぞ。俺はTeusみたいに甘くないからな。”
“皆…”
“入り口の前で、ずっと動かず、待ってくれていると思いますから…”