281. 隔意は何処へ
281. Unreserved
“どうしたんです、Fenrirさん?”
ドヤ顔でリンゴをガシガシと噛み砕き、口元に纏わりついた甘ったるい果汁を舐めまわす。
その姿は、誰よりもこの島での生活を謳歌する狼は僕ですと周囲に知らしめているようで目障りだ。
“食欲、無いんですか?”
“……。”
なのに、話しかけて来るとか、何なのだ。
お前、Teusの相棒なんだろ?
だったら、人間の微妙な機微とか、即座に感じ取れるのだと思っていたぞ。
“…僕の、一個、あげます!”
俺の、勝手な妄想に過ぎなかったようだな。
お前、Teusにそっくりだよ。
閉じ籠りたい縄張りの中に、明るく土足で踏み込んできやがる。
“何故だ。”
“お腹が痛いときは、消化に良いお肉も良いけど、栄養満点のリンゴも食べると良いんだよって、長老様が昔仰ってたのを、思い出したからです。”
そいつは初耳だ。
…というか、何故俺が腹痛で塞ぎ込んでいることになっているのだ。
誰がお前の昔話をしろと言った。
違う、俺はそんな話をしたいのではないぞ。
“何故…何故お前が…”
“…此処にいるかと聞いているのだ。”
“そんな、僕がお邪魔しちゃ、悪かったですか…?”
そう言う時だけ、耳と尾をしゅんとを寝かせて、申し訳なさそうな顔をするんだな。
まあ、今に始まったことでは無いか。
“……。そうかもな。”
“酷いっ!Fenrirさんが起きなかったのが、悪いんじゃないですか!”
“何だと…お前も口答えするようになったな。”
「ほらほら、そうやって朝から機嫌悪くしないの。」
これが、事の顛末だ。
嬉しい知らせと、悪い知らせ、などと洒落込んでみようか。
勿論、良い知らせとは、Teusが早起きをするようになったことだ。
素晴らしい進歩じゃないか。
立派な年寄りに一歩近づいた証拠だ。
そして、悪い知らせとは、
そうだ。Skaが此方へと戻って来る瞬間を、この俺が捉え損ねた。
ただその一点であるのだ。
「絶対に、気づけたはずなのだ……。」
お前が従えていた金属箱のようだ。などと言い訳がましい言葉は果実のように飲み込めない。
狼の矜持とか、そんなの以前の問題だ。
俺は悔しさを滲ませ、視界に転がって来たリンゴを恨めしそうに睨みつける。
何の前触れも無いどころか、寝込みを襲われたかと勘繰るぐらいに、俺の裏をかくとは。
一体、どんなやり手だ。
まるで初めから、其処にいたかのように、存在されては。
負け惜しみのようで、吠えるのは情けないが、本当にどうしようもない。
境界に対する知覚が、俺の張り巡らせた防衛線のようなものだ。
俺は、俺の縄張りに侵入したあらゆる生き物の息遣いを探知する。
空の生き物とて、風の潺に紛れたとて、例外とならない。
俺が耳を尖らせさえすれば、そいつは目を瞑っていても追跡が可能だ。
逃れたくば、俺の縄張りから抜け出るしかない。
しかし、標的が、初めから縄張りに潜んでいたら?
追跡の対象に、選択的に意識を集中できない。
俺はそいつが目の前に姿を現すまで、耳による追尾は優秀なTrackerでしかない。
大狼の狩場に躍り出た獲物とは程遠い。
こんな欺かれ方、まるで……
“食べないんだったら、僕、食べちゃいますよ?”
“……?”
“勿体ないですし……”
だったら初めから、断腸の思いで俺に譲ろうなどと申し出るんじゃない。
尻尾をふりふりしながら、凝視するな。
“……好きにしろ。”
“はい!そうさせて頂きます!”
“…お言葉に甘えて!”
大口で獲物に牙を突き立てると、何を思ったのかそう付け加える。
全く、横取りできたおやつ程、旨いものはそうそう無いだろうよ。
そうそう。そうやって自慢げにご主人様に見せびらかすと良い。
もしかしたら、ご褒美にもう一個分けてくれるかも知れないぞ。
「お、良かったじゃん。Fenrirにも意外と優しい所、あるんだね。」
「……んだと…?」
喜捨を前提に立たされては、神様もたまったものでは無いよな。
心なしか、二人も嬉しそうだ。
やはり彼らには、家族としてこの狼が必要で。
こいつには人間の友が必要なのかも知れない。
「でも駄目だよ?Ska。Fenrirの忠告通り、あれは迂闊に入り込んで良いものじゃないんだ。」
“はい、申し訳ありません、Teus様……”
「……。」
そう。図らずの結集であった。
しかしこれで、新たな情報が、この方舟に追加されたことになる。
こいつには、往来便がある。
Skaを送り出せた時点では、此方側からは得られない答えであったのだ。
特定の対象を除けば、この方舟は、完全にトンネルの役割を果たす。
誰か、待ち詫びている訪問者を迎え入れるまでは、少なくともその口を閉じるつもりは無いのだ。
そして、それはSkaでは無い。
俺達でもない。
そいつは、何処にいる?
どちら側で、その入り口を覗き、入り込もうかと尾を揺らしているのだ?
それとも、もう既に、通過した後…?
“……?”
追憶にも似た物思いに耽ることを、目の前の幸せな営みは決して許さない。
“お腹、いっぱいです……”
うつらうつらとして、Skaはとても眠たそうに瞼を細めている。
何と言うか...呆れた奴だ。
“なんだ、腹いっぱいまで詰め込んだら、今度は昼寝か?”
“いえ…ちょっと、眠くて…”
まともに返答も出来なくなっているじゃないか。
もう寝ろ。二人に愛撫されながら、夢も見ない程、深い眠りに堕ちてしまえ。
“ずっとお昼が長いものですから…”
“遊び尽くせないようで、残念なことだ。”
“……?”
“おい、Ska。”
“今…何と言った?”
”……。”
“時差……?”
この土地は、Lyngvi島は、ヴェズーヴァとどれ程の距離があると考えれば良いだろうか?
俺が、北岸の先端まで休みなく走り続けて到達できる距離など、それこそ数分程度の差しか生むまい。
そんな、半日もかかることは、あり得ないのだ。
そうなると、それだけの時差を産んだ要因として考えられるのは、
無論、俺を縄張りの北岸からこの世界へと連れ出してくれた、あの母なる浮島だ。
あれが、どれだけの飛距離を経て、Lyngvi島の諸島の一つとして姿を窶すのか。
結論、知る由も無い。
ああ、駄目だ。此処でも俺は、惰眠を貪った己を呪わなくてはならない。
しかし、彼の何気ない一言が、寝言でなければ。
彼方の日没が、此方の夜明けと同じ時間軸で重なるという意味ではないか?
ただ、それだけ。
それが解っただけだが。
ああ、それで、思い出した。
“Ska、お前が彼方で過ごしていた僅かな時間に、何があったか、聞かせるのだ。”
群れに、ヴェズーヴァに、何か狼として不審に思う点は、無かったか?
「おい!Ska…っ!!」
「無駄だよ。諦めな?」
「っ…」
「今が、Skaにとって、こっちで一番幸せな時間なんだからさ。」
「しかし、今すぐに確かめなくては…」
「そんなに、急ぐこと無いだろ?数時間後には起きるさ。」
「一刻を争う訳でも無し…ね、Ska?」
「……。」
頭上で飛び交うそんなやり取りさえ、最早彼の鋭敏な耳には届いていない。
「……。」
「くそっ…」
荒々しく鼻息を鳴らすと、すっくと立ちあがって、尻尾を外套の裾のように翻す。
俺も眠ってやる。
此処で、では無いぞ。一匹で悠々と過ごせる、あの洞穴の中でだ。
誰にも眠りを、妨げられるものか。
「……。」
こんなにお前の表情を、あどけないどころか、あざといと思ったことは無かったぞ。