280. 辻褄の不一致 3
280. It doesn’t add up 3
その日は一晩中眼が冴えた。
当たり前のことだ。日中、体力を消耗しつつも、延々と眠りこけていたのだから。長旅の疲れも癒えつつある今、夜更けに惰眠を貪るのは、この上なく惜しいことのように思われる。
「……。」
眠れない夜は、答えの出ない堂々巡りに頭を悩ませるに限る。
それが、どれだけ生産性が無くて、俺に一歩の前進も齎さなかったとしてもだ。
俺は、今夜の寝床を、涼やかな浜辺に佇む、方舟の傍らに定めた。
Teusと、交代で、この入り口を見張ることにしたのだ。
誰かが、やって来る。
それがいつかは分からないが、そんな予感が、俺達の間で共有されてしまった以上。
その正体を見極めない訳には行かなかったのだ。
日中は、TeusがFreyaと普通に過ごしながら、時折目を配ってくれればそれで良い。
俺も出来るだけ、聴覚には気を配るつもりでいるし、これだけ見晴らしが良ければ、その存在を十分に知覚できることだろう。
夜間は、代わって俺が番狼の役割を務めることになった。
闇夜に紛れて、島内への潜伏を試みようとする者は、決して見逃さない。
「……。」
そうは言っても、いつやって来るかも分からぬ誰かを待ち惚けるのは、
俺がTeusに出会えると物語の初めから期待するように、無為極まりないことだと分かっていた。
だから、考え事に思いを馳せるとしよう。
俺がずっと欲しいと希った、一匹の内省の時間だ。
壁際に頭を押し付ければ、何だか部屋の隅で蹲る幼少期が思い出されて面白い。
なんだか懐かしい。こんなの、枕にすらならないが、垂直に首だけ寄りかかって気絶したものだ。
しかしそれでも眠れなければ、俺はぽっかりと漆黒の口を開けた扉に相対して、俯せになって寝ずの番をしてやろうと心に決めたのだ。
「Ska…。」
もしかすると、もう一度だけでも、その暗闇の中から、
俺が送り出した狼が、言いつけを破って、再び姿を見せやしないか。
そうでなくても、俺に向けて、何らかのメッセージを送り届けようと試みることは無いか。
Teusには、あんな風に濁してしまったが。
あの遠吠えは、やはり不自然だ。
俺はそう結論づけている。
「一体、何があった?」
遠吠え、それ自体に、何らかの危険信号が込められていたとは、俺は考えない。
時差……が、あり過ぎる。
招集にそんなに時間を要することがあるか?
Skaが、ヴェズーヴァに同じような出で立ちで聳えるこの金属箱から、滞りなく抜け出す事が出来たとして。
入り口が、半分ほど雪に埋められていたりするだろうか。
そろそろ、それぐらいの深雪が、全土を覆っても良い頃だ。
豊穣の季節を迎えるにあたって、それ相当の対価を、あの土地は纏わなくてはならない。
良いなあ、などと、呑気な感想が浮かぶあたり、俺は相当に精神をやられている。
だとしても、洞穴の入り口を狭めるようにしてなだれ込む傾斜だろう。狼がよじ登ることなど、造作もあるまい。
彼が、その後に群れ仲間たちと合流を果たすのに苦労することはあるだろうか。
彼らが、ヴェズーヴァからも、そしてヴァン川の対岸の畔からも拠点を移していることは、十分に考えられる。
真っ先に思い当たるのは、俺の古巣。
それで良いと思う。図らずともその帰結に、我が狼も、本望であることだろう。
Skaも、周囲に気配が無いことを感じ取ると、真っ先にそちらへ向かったのに違いない。
しかしその時、彼は行く先に、彼らの存在を確かめようとはしなかっただろうか。
お前達は、そこにいるかい、と。
一度の短いそれだとしても、遠吠えを、した筈なのだ。
それを、俺とTeusは、聞き逃したと言うのか…?
声量は、合唱によって変わるだろう。
入り口の手前で、一匹で厳かに吠えたてたとも限らない。
暫く駆けて、十分な距離で、位置情報を探り始めることもあるだろう。
…本当に、そうか?
彼は言った。
きっと皆で、応えますと。
俺に聞かせてくれる遠吠えは、必ず合唱で無くてはならない。
彼はそんな律儀な振舞いに、徹しようとするだろうか?
それ故に、彼は自らが率いて来た群れとの合流に最も勘便な手段を棄ててしまった。
それが故に、これだけの時差が、産まれてしまったというのか?
…やはり、何か不自然だ。
半日。
此方の薄明から、彼方の薄暮までに、何かがあった。
「…それは、何だ?」
一度、なるべく早いうちに、Skaを此方へ呼び寄せなくてはならないと思った。
彼方の側で、何があったかを、子細に語って貰わなくては。
しかしTeusに話した通り、俺からあいつに直接はたらきかける方法は、敢えて自ら手放している。
彼も同じように、俺が抱いている違和感に駆られ、俺達との接触を求めていれば良いのだが。
入り口からは、ひんやりとした心地よい風が吹き、耳の間を撫でるように掠めていく。
俺を通さぬ堅固な門である癖に、まるで向こうの世界から漏れ出す隙間風のようで。
静かに目を閉じれば、元居た世界で眠る幻想に浸れなくも無い。
「……。」
入り口から、氷水が染み出して来る。
視界の端でちらつくのは、雪片の光だろうか。
俺はまたも、僅かな気の緩みによって、夢の世界に脚を浸しそうになる。
「い、いかん……。」
何のために、寝ずの番をしていると思っているのだ。
この物言わぬ金属箱が、遅れを取り戻そうともしない訪問者を案内する為だけに、景観を台無しにしてまで鎮座しているのであれば。
俺はそいつを出迎え、正体を突き止めなくてはならない。
何故かは分からないが、そいつは、この島へと脚を踏み入れてはならない気がするのだ。
言わば、招かれざる客。
必要に迫られれば、俺は追い返す役割を担うのも厭わない覚悟だ。
しかし、その覚悟と言うのも、案外脆いものらしい。
駄目だ、眠ってはならない。
そう強く念じれば、念じる程、
睡魔は俺を、さも楽しそうに嘲笑い、
俺よりも遥かに強大な力を操り、俺の頭蓋を押し潰そうと襲い掛かるのだ。
……?
今、暗闇の奥で、何かが蠢きはしなかったか?
とびきり大きな脚が、地面を擦るような?
子供が恐れる怪物のように輪郭を持たなかったが、気配と呼んで良いぐらいの息遣いは、伝わって来たように思う。
ああ、此方の存在に、気が付いてしまって、鳴りを潜めてしまったのか?
眠ったふりをすれば、安心して、もう一度その顔を見せてくれるだろうか?
ほら、大丈夫。怖くなんか、無いから。
駄目だ、これ以上、抗えない。
さあ、出ておいで…?
ああ。もう少し、もう少しで、突き止められそうなのに……。
“分かった…先に、行くが…良い……。”
――――――――――――――――――――――
「ほらFenrirーっ!!いつまで寝てるのさ!もう朝ごはん先食べちゃうよ!?」
翌朝、俺はTeusのけたたましい呼び声で、最悪の朝を迎える。
「……。」
まさか、この俺が、こいつに叩き起こされる日がやって来ようとは。
誇張抜きに、この上ない屈辱であると言っておこう。
結局、いつごろまで意識を保っていられたのか定かではない。
日の出を確認するまで目を開けていられたような気もするし、それすら自分の瞼の裏で見た話であっても、否定することは出来そうにない。
「分かった…今、向かう…ぞ…」
ただ、目覚めは最悪で、朝食の誘惑さえなければ、俺は黙って二度寝を決め込んでやっていたに違いなかったのだ。
取り敢えず、夜番は異常なしとだけ、伝えておいて、
あとは無言でご馳走を貪って、今度こそ洞穴でゆったりと爆睡だ。
“それにしても、Teus様が早起きするようになるなんて、思いもしませんでしたね。”
「うーん、こっちに来てから、すこぶる調子が良くてさ。日照時間が長いと、やっぱり気持ち良く目覚められるのかな?」
“Teus様がお元気なら、とっても良いことです!”
“…?”
“あ、Fenrirさん。おはようございまーす!!”
“……??”
一体……。
どうなってる?