278. もつれる群体
278. Tangled Pack
“……?”
飛び込んだ白銀の世界に、僕は思わず目を見開いた。
“……!!”
わあ。
すっかりと、積もったんだなあ。
眠っている間に塗り替えられるように、それは静かな様変わり。
あの偉大な狼ほど、この季節を特別扱いしたことは無いのだけれど。
それでも全身の毛皮が、鋭敏に逆立ち、僕をその場に相応しい獣へと変貌させたのが分かった。
何かが内側で目覚めるような、そんな特別な気分。
視界に促されるように、すっと思考が冴えていく。
Fenrirさん、冬が、やって来ましたよ。
鼻を乾かす冷気に驚き、湿らそうと覆った舌先が雪を舐めるようで、これまた驚いてくしゃみが出る。
初め、耳が聞こえなくなったのかと思った。
ひっそりと静まり返ったヴェズーヴァは、そこが完全に、狼だけの行き交う森の一部と化したことを示していた。
直感で分かる。
霊気は耐え、
そこは、Fenrirさんが潜む縄張りの森の一部となったのだと。
この雪の臭いを、Fenrirさんに、持って帰って上げなくちゃ。
僕は腹まで埋もれた身体を、雪原に転がして、全身が純白に染まるまで、擦り付ける。
それに、こうやって腹を見せ、舌を垂らして遊ぶ姿勢をとると、傍らにTeus様がいないことをすぐさま恋しく思ってしまうんだ。
Freyaさんは、お外に出たがらないだろうか。
僕の温もりを必要として下さる優しい両手に撫でられるのも、冬の愉しみ方に間違いないんだよね。
“……!!……!!”
そして僕は、自分を取り囲む、これまた白銀の群れに、忽ち吞み込まれてしまったのだった。
“……?……??”
見えないよ、重たいよ。
なあに?どうしたんだ?
慌てて起き上がるも、目の前を覆い尽くす毛皮の波で、危うく押しつぶされそうになる。
ああ、僕、帰って来たんだ。
忽ち、僕の周りには、嗅ぎなれた臭いが溢れ出し、記憶の濁流に溺れた。
ただいま、みんな。
Fenrirさんから、聞いたよ。
辛抱強く待ってくれていたんだね。
皆元気そうで、安心したよ。
もう大丈夫。
群れのリーダーの、ご帰還だぞ。
体中を鼻先で突かれ、なんだかくすぐったいよ。
あんまりしつこいので、どうしたんだろうと訝しんでいると、
僕は、自分自身が纏っていた、お土産の臭いを皆が興味津々で嗅ぎ取っていることに気が付いた。
そうか。Lyngvi島で、僕が拾って来た色んな臭いは、全てこの土地とはかけ離れていて。
きっと狼でさえ、そのすべてを嗅ぎ分けることが出来ずに戸惑っているんだ。
ずっとずっと、こうして、匂いの交換をしていたかった。
その中で、一際僕の口元に鼻先の接吻を熱く送ってくれる狼がいる。
ああ、良い臭いだ。
Yonah、会いたかった。
君も一緒に、魅惑の孤島に連れて行ってしまいたいぐらい。
でも、そうしたら、子供達が。
じゃあ、子供達を連れて行ったら、他の群れ仲間たちが。
そうやって、僕はFenrirさん達を、困らせてしまうと知っていたから。
僕は貴女を、いつだって束の間、悲しませてしまう。
―そうだ。
Fenrirさん、Fenrirさんだ。
Lyngvi島にいる、貴方のことも。
僕は再会の喜びに尻尾を振り回す余り、危うく大事な約束を忘れるところだった。
僕の耳には、まだ、貴方の残響が木霊している。
ただ、呼応しなくてはと、
急き立てられる。
本能に腹を見せ、
僕がこの群れの一番乗りになろうと、首筋を逸らして反りかえる。
“アウォオオオオオオーーーーー……”
辺り一帯を埋め尽くす狼たちの間で、それは忽ち波及する。
上気する息に塗れ、渦巻く塊となって、僕たちは吠え続けた。
“ウォォォオオーーーー…オオォォォーーーーー”
“ウォオオオーーーゥ……”
“アウゥゥォォォーーーーゥォオオオーーーー”
“……。”
“アウォオオオオオオゥゥゥゥッ…ゥォオオオッッッッーーーーー…”
“……。”
頭が、ぼうっとする。
興奮し切った頭が、熱にあてられ、寒気に締め上げられ、ふらふらする。
頭を撫でられながら、うっとりと目を細める眠気よりも、心地が良い。
己に授けられた、翼を捥がれた気分だった。
僕は、人間の言葉なんて知らない。
人間が、どういう生き物であるのかなんて、聞き伝えられた存在でしかない。
どうして、他の動物と区別したい取り分けの理由も無い。
僕の目の前にあるのは。
途切れることなく加わり続ける、遠吠えの主たちと。
それをひっそりと見守る、凍り付いた縄張りだけ。
僕はそのとき、あの方の臭いの一切を忘れていた。
僕は初めて、Fenrirさんの気持ちが分かった気がしたんだ。
人間の存在を知覚しない、日没の光さえ潰えた。
瞳に宿る、青の世界を。




