277. 厳かな迷子石 3
277.Grim Megalith 3
二度とするまい、と思った。
まるで、仔狼のようでは無いか。
一匹でも思い切り声を張り上げられたのは、この世界に自分は一匹だけであるという幻想を破られることが決して無かったからだ。
こんな風では、周囲の群れ仲間たちが、不思議そうに此方を覗き込む視線が目に浮かんで痛い。
「Fenrir、どうしたんだい?」
「君が夜明けに遠吠えを聞かせてくれるなんて、珍しいじゃないか。」
ほら、来た。
「何か、良いことでもあったみたいだ。」
悪かったな、らしくないことなんか、して見せてしまって。
別に、誰かの注意を惹きたかった訳では、決して無いとだけ、言っておこう。
「良かった、うまく行ったんだね。」
「…そのようだ。」
俺はもう一度、自らが書き記した魔法陣の上に、十字となるよう爪で線を引く。
それで全てを察してくれたTeusは、ほっとしたような笑顔を見せて、ありがとうと労いの言葉を口にする。
それだけでも、やはり俺は、二人きりの世界を、己の縄張りの中での対話を思い出してしまって、思わずむっと顔をしかめてしまうのだ。
「Ska…こっちでご飯食べてからでも、全然良かったのに。」
「なんて言うのは野暮か。一刻も早く、皆に会いたかっただろうしね。」
「ああ…俺があいつの分も喰ってしまえば、何の問題も無かろう。」
「うん、お願いね。準備、出来てるから。海辺で食べようよ。」
「そうだな。そうさせて貰おう。」
さっさと食欲を満たして、それから日陰に蹲って、思いきり眠ろう。
晩夏の暑さを忘れて、少しでも幸せな白氷の夢に埋もれたい。
「ちょっと待ってて、Freya連れて来るから!」
Teusと、これからの生活の話をするのは、その後だ。
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「うーむ、Skaの分では、大した腹の足しにならん…」
「全然、もっと沢山作れるよ。お昼まで、ちょっと待って欲しいけど。」
「ああ、頼むぞ。1週間ほど軽食で繋いできたからな。暫くは溜め込んでおきたい気分だ。」
「ええ…まあ、足りるよね。底を突いたように見せれば、どうせ湧いて出て来るんだもの。」
「……?あの箱、此方でもそういう使い出があるのか?」
それはおかしい、と思った。
もしそうなら、TeusはSkaと同じように、故郷との往来を可能にしてしまう可能性を孕んでいたからだ。
「何言ってるのさ。こう見えても此処は、港町なんだよ。無人のね。」
「無人……?ヴェズーヴァのように、か?」
「後で、そこの通りでも覗いてみたら良いよ。ちょっとした市場が開かれてるから。」
「…それ、食べても良い奴か?」
「勿論。滞在者へのサービスの一つだから。」
「それに無人販売だからね、Fenrirも安心して闊歩できるって訳だ。」
ならば無銭飲食を地で行くような行為に思えるが、どうやらLyngvi島への滞在者は、そうやって食料を調達するらしい。流石は一級のリゾート地と言った所か。
「ヴェズーヴァにも、そんな通りがあったら良かったのにな。」
「そうだね。俺がもっと、高位な神様だったら、話は違ったんだけど。」
「どういう意味だ?」
「あれ、全部お供え物なんだ。」
「お供え…神々への、か?」
「そう。前に、ちょっと話したっけ?」
「ああ…」
旅の初めぐらいだっただろうか。Teusが余り食事を口にしない理由について、俺は一度訪ねたことがある。
彼は自らの空腹が、ある種の信仰によって、満たされているのだと話した。
「まさか、信仰が具現化するとはな。」
「うーん、そういうことじゃないと思うんだけどね。でも、感謝を形で表してくれると、それはそれで、こうして喜べるし、とても助かるって言うか。」
そうか。それが、神様を、神様足らしめている所以であるのだと。
そして、それを失った今、彼は言わば、一介の人間に成り果てている。
当然のように、食事は取らなければならないのだろう。
「お供え物を食べたら罰が当たるとか、そんなこと考えなくて良いからね?これは、巡り巡って、神様からの贈り物になっているだけさ。」
「お前が俺に与えてくれた、鹿肉と同じという訳だな。」
「そういう事。…いや、そうじゃなくない?」
「ふふっ、毒見が済んでいるのなら、遠慮なく頂くとしよう。」
「もうっ!!Fenrirっ!!」
何でも懐かしいと感じてしまうのは、本当に宜しくないと思った。
まるで、ヴェズーヴァの集落の外れで暮らしたあの日々に、彼の伴侶と、随分と上達してしまった食事が加わったようだ。
しかし、代わりに失ったものが大きすぎて、俺達の会話には、随分と爽やかに潮風が口を挟む。
Skaが居なくなっただけで、このざまでは、この先やって行かれそうも無い。
間に何かが淀みなく流れていないと、物寂しく感じてしまうのは、口元に齧りやすい骨片を携えておかなければ落ち着かない若狼とさして変わり無いな。
「…あのね、ありがとう、Fenrir。」
「本当のことを言ってしまうと、君のことを探している間、俺はSkaを皆の元へ帰す方法について、考えもしなかったから…」
彼は気まずそうに、心中に抱えていた蟠りを零した。
「お前に何かできると期待していた訳では無い。全て、此方に任せて貰うぐらいの心持ちで、構わないぞ。」
そうだ。俺たちは、そういう風に口を開いて。
気が付いたら本音を交わし合っているだけなのだ。
「お前には悪いが、暫くは、あいつの好きにさせていようと思う。」
「うん…そうだね。」
「俺の方からは、あいつに此方へと呼び寄せる方法を伝えていない。正確には、曖昧な表現で濁し、俺が来るべき時に呼び寄せるから、その時まで待っていろと指示している。」
「従って、Lyngvi島へと至りたいならば、あいつの方から、その手段を模索するように仕向けている。」
「勿論、それで構わないよ。」
「入り口に辿り着くのも、そんなに難しい訳では無い。Skaなら、きっと見つけ出せるだろう。要は、あいつがその片道切符を握りたいと願うまでは、群れでの生活を謳歌させてやるということだ。」
「何から何まで、本当にありがとうね。」
「…まさか、俺がお前に代わって神様じみたことをする羽目になるとはな。」
「そうかな?何も変わらないよ。俺は初めから、大神様に助けて貰ってばかりだ。」
「……返答に困る。」
何も変わっていないと言うのは、本当にその通りであるようだ。
「今頃、ヴェズーヴァと共に、初めての冬を越していることだろう。」
「そっか。考えてみれば、そうなんだね。」
「あれから、もう一年も経つのか…」
「逆に言えば、お前はまだ、長老様とやらの役目を、それだけしか引き継げていないということだ。
まだまだ、その使命を果たして貰いたいぞ。」
「分かってる。」
「全部終わって…この休暇が終われば、帰還は必ず果たすさ。」