277. 厳かな迷子石
277.Grim Megalith
“……。”
俺は、目を瞑ったまま、長いこと首を垂れてじっとしていたが。
もう少しで完成間近だった床の魔法陣を、丁寧に前脚の爪で掻き消した。
行先は、ヴェズーヴァのTeusの邸宅の正面。
寸分の狂いも無い。
俺が起こした我流の奇跡によって、彼は群れ仲間との再会を果たす。
その為の準備は、周到に済ませて来たのだ。
しかし、頭の中で完璧に記されていた記号と図形の集合を、淀みなく刻み込んでいく最中であっても、ずっと蟠りが残っていたのだ。
爪先に従う筆跡が、僅かな警鐘を鳴らし続けている。
このまま、手筈通りにSkaを送り出してしまって良いのか、と?
彼は、またTeusの元へと戻って来るだろう。
その為の奇跡さえ、俺の手中に用意されている。
帰りの切符は、ヴェズーヴァの外に隠してある。
嘗ての古巣、俺の洞穴の前に、その魔法陣は描いておいた。
今頃は、その痕跡さえも、分厚い雪で覆われてしまっているだろうが。
寧ろそれで良い。きっと彼なら、嗅ぎ当てる。
予期せぬ侵入者によって、彼の帰還を阻まれるよりは、遥かに信用できる隠し通路であるのだ。
次の往来は、ちと複雑さを増すことになるが。
この計画自体には、何の問題も無い。
にも拘わらず。
何かが違うのだ。
“結論から言おう、Ska。”
“…はい、何でしょう?Fenrirさん。”
その魔法陣の中心で、舌を垂らしてお座りをしていたSkaは、声音から不穏な知らせを直ちに感じ取った。
彼らが休む家屋からは、十分な距離があるが、
俺達の会話は、Teusには聞こえないよう、十分に配慮すべきだ。
そこの窓から、仲良くやっている様子だけが見て取れてくれれば良い。
出来れば、閉めてくれるとありがたいんだがな。
ようやくと嗅ぎなれた喰い物の臭いに、胃袋が呼応の遠吠えを上げそうになるのを、どうにかしたいぞ。
Freyaには筒抜けであっても、まあ構わないかと思っている。
あいつには、Skaを危険に晒すなど、口が裂けても言えない。
“お前の転送は、中止だ。”
“……。”
忽ち、彼の耳が垂れ下がり、全身の毛皮がしょげ返る。
“…まだ、分からないことが多すぎる。”
“お前を、今此処で、俺の転送によって送り出すべきでは、無いような気がしてるのだ。”
“やっぱり、危険、ですか…?”
“こういう時は…少なくとも、迂闊に動くべきでは無い。”
“そう、ですよね…”
どれだけTeusの前では気丈に振舞おうと、群れ仲間の臭いを久しく嗅ぐことが出来ずにいたのは、かなり辛かったことだろう。
俺が一刻でも早くと強調し、昨晩の内に移動まで済ませたかったのは、無論彼の為でもあったのだ。
早く皆に会いたいと、待ちきれない彼の一挙手一投足の拙さは、まさに仔狼のようと言って差し支えなかった。
伸びやかに撓る尻尾に我慢を強いるなんて、誰だったしたくあるまい。
Teusじゃなくたって、心が痛んだ。
“だが、代わりに…”
俺は、目つきを柔らかくして、しかし代わりに一段と声音を下げて囁いた。
“ちょっと、賭けに出てみようと思う。”
“それって、どんな…?”
彼は浮きかけた腰を反射的に落とし、主人からの命令を聞き漏らすまいとする姿勢をとる。
“Skaよ。お前は何度か、Teusに巻き込まれて、転送を経験しているよな。”
“えーっと、多分、そうだと思います…”
“覚えている範囲で、どんな時だったか、話してくれるか。”
“えっ?良いですけ、ど…”
彼は、人間がそうするように宙をじっと見つめ、難しそうな顔をして記憶を掘り起こす仕草をして見せた。
“初めは、何の自覚も無かったんです。確か、僕が溺れかけたTeus様の後を追って、ヴェズーヴァに飛ばされた時が、初めての転送だったと思います。”
“溺れかけた…?”
“部屋の中に、小さな池が出来ていたんです。そこに、Teus様が足を踏み外して、落っこちてしまって。引き揚げなきゃと思って、僕一緒に飛び込んだんです。それで、二人で顔を出してみたら。そこはもう、いつもの村では、ありませんでした。”
“……なるほど。”
初めて、その時の詳しい話を聞かされたが。
それだけで俺は、確信に近いものを得ていた。
“それで、二回目の転送と言うのが、ヴェズーヴァごと、Teusと一緒に帰還を果たした、例の事件という訳だな?”
“仰る通りです。その時は、Teus様が、今Fenrirさんが描いてくださったような模様の中心に立って、一緒に移動してきちゃった感じした。”
“ふむ…その時は、Teusの様子はどんなだった。”
“…ごめんなさい。あんまり、覚えていません。”
“でも、Teus様自身は、僕だけをヴァナヘイムまで、送り届けるつもりでした。それだけは、間違いありません。”
“…そうだろうな。あいつには、そう言った制約を課せられている。”
“他には、何か、俺の見ていない所で、似た経験は無いか?”
“えー…あ、Freyaさんと一緒に、Teus様の元へ向かいましたよ!”
“おお、そうだった。俺とTeusは、直接陸路で向かい、北の海岸で、お前達二人を呼び寄せたな。”
“帰りも、同じ感じでしたね。でもFreyaさんは、非常事態にも拘わらず、Teus様みたいに、怖がったりしていらっしゃいませんでした。慣れていらっしゃるんですかね…?”
“少なくとも、転送に関しては、な…”
“そして、数日前に、この転送路を歩いた、と。”
“…そういうことに、なるかと思います。”
“……。”
“お役に、立てましたでしょうか?”
“ああ……。十分すぎるぐらいにだ。”
俺は、ぼんやりと、彼らが姿を現したとされる、巨大な金属箱を見上げる。
“……。”
生温い風が、頬を仰いだ。
余りの不快さに、瞼が痙攣する。
“この箱は、とことん得体が知れぬ。”
特異的な装置だと言って良い。
状況が、状況だったから、そこまで気にも留めていなかったが。
あいつは、こういった空路とでも言うべき転送装置に、激しい嫌悪感を覚えて然るべきだったはずだ。
“Skaよ、実際に、長いトンネルを歩いている間、Teusの様子は、おかしくなかったか?”
あいつは、自分自身の移動に対して、尋常ならざる恐怖を覚える筈だ。
なのに、何故?
一切怯えた表情を晒すことなく、平然と。
“いいえ、そんなことないですよ。寧ろ、ブチぎれてました!昨晩、お話したかも知れませんけど。”
“それは、抜けた後のことだろう?それに、いつものことであって、特筆すべきとも思わない。”
“いえ、本当に怒ってらっしゃいましたよ…?いつものお戯れとは比べ物にならないくらいでした。”
ああ、戯れの自覚があったんだな。お前にも。
“ちょっと、怖くて。お傍にいられないくらいでした…”
“つまり、それだ。”
“え…?”
“お前、本当にTeusが、お前を近寄らせまいとするほど、声を荒げることがあると思うか?”
“……?すみません、言ってる意味が、分からないです…”
“わざとらしい、と言ってるのだ。”
“わ、ざ…と?”
“まるで、全てが予想外だと、狼狽え、取り乱しているように見える。”
“Teus様は、この大きな箱が、その…特別な乗り物であることを、初めから御存知だった、ということですか…?”
“そういう事だ。物分かりが早くて助かるぞ。”
“あれが、俺の思うような方舟であるとするならば...”
“方舟…?”
“あいつは、俺達に何かを、まだ隠している。”
“……。”
“Teusを疑えと、言っているのではない。”
“この矛盾は、きっと俺たちに有利にはたらく。”
俺達は、相手に無知な獣であると思わせることが出来る。
それはいつだって、俺が出し抜くための格好の隙となってくれた。
“……?知らないふりを、しようと言うのですか?”
別に、Teus様なら、きっと僕らに有益な情報を教えてくださいますよ?
お前は、本当にお人好しだ。
主人に似て、良かったじゃないか。
“それ、褒めて下さってます?”
お前が見つけてくれていなければ、招待状は今頃、俺達をLyngvi島へ呼び寄せてはいないのだがな。
“…だからこそ、僕らがTeus様に心を開いて頂かないと…!”
“確かにそういう考え方もあるだろう。だが、今は駄目だ。”
“あいつは、俺達に、二度も嘘を吐いた。”
“これは、重要なことだ。どういう意味だと思う?”
“…いえ、わから、ないです。”
俺は、ぐっと身を乗り出し、魔法陣の中に自らの脚を踏み入れた。
“あいつには、何があっても、俺達に明かしたくない秘密があるってことさ。”
“……。”
“俺たちが、今此処で、Teusの綻びを指摘したって、意味が無い。あいつはまた、肝心な所で、俺達に嘘を吐くだろう。”
“そ、それって…?”
“分かったら、苦労はしないさ。だが、その嘘は、自分自身ばかりか、俺達を護るためのものであると、信じてやりたい気持ちでいる。…今は、な。”
“それに俺たちは、あいつを闘いの土俵に引っ張り出しちゃならない。”
“事なかれ主義、という奴か。良く言ってやれば。”
“今は我慢だ。まずは、二人に、新しく平穏な日常を、齎してやろう。”
“頼む、協力してくれ。”
“……。”
“わ、わかり、ました…”
“そ、それで…僕は何をすれば、良いんです?”