273. 歌鳥の祝福 3
273. Songbirds’ Blessing 3
Skaの案内に従う道中で、分かったことが幾つかある。
まずLyngvi島の景観は、想定していたよりも、人間による手入れが為されていないということだ。
それ自体は望ましいことであるにも拘らず、戸惑いを隠せない。
Teusの言うリゾート地が、俺にとっては、大自然の美しさを、浅瀬で楽しむことが出来るよう、人間が場違いな縄張りをこじ開けたものだと理解していたからだ。
そのような一角が、この島の何処かにあるのは想像に難くないが、それは思ったよりも慎ましやかで。
少なくとも俺が道なりの追跡を続けている間、それらしい痕跡に出逢うことは無かった。
続くばかりは、ヴァン川の畔に近い濃さの雑木林。
狼が身を隠すのに、不安を覚えない程度の見通しの悪さ。
良いのか、それで。
もっと挑発的に、蹂躙するのではないのか。
ずっとアースガルズの中枢で過ごして来た神々にとって、そのような趣向は寧ろ寛ぐのに足枷となるのではないか。
もう一つは、温暖な気候が、既に自らの身体を蝕んでいる観念にとらわれていること。
何故…何故に俺は、舌を地面すれすれまで垂らして歩くような醜態を余儀なくされている。
既に鼻の奥まで充満しきった草花の臭いは、俺にまるで、頭を川の内に押し込んだような感覚の鈍化を齎した。
加えて、Lyngviへの到達は、俺の目の前から、冬を奪うだけに留まらず、見慣れた風景それ自体を塗り替えてしまったのだ。
初夏への逆行を強いられたと考えるのは、間違いであったのだ。
見たことも無い色合いをした鮮やかな薄紅の花が、湿った臭いを放って足元に媚びる。
思わず目に留めてしまうような、一枚一枚が異様な形状をした樹皮の大木を見上げてみれば、扇状に裂けた葉が幾重にも広がっており、何だこれはと反射的に腰を落として怯む。
嫌だ。もう帰りたい。
此処に来て、何度目の弱音だろう。
移住に及び腰であってはならないと諫めた自分が、何を望郷の意に尾を落としているのだ。
後ろ指をさされて笑われぬよう、彼らの前でそのような素振りは、噯にも出してはならないだろう。
この滞在が、少しでも素晴らしいものとなるよう、一番気を使わなくてはならないのは、俺自身であったようだ。
――――――――――――――――――――――
鴎の鳴くような夕暮れが、辺りを包み込む。
次第に周囲の熱気は取り除かれ、ようやく耐えられるほどの過ごしやすさと静寂が訪れつつあった。
“……。”
Skaの影は、大狼を従えたように長く伸び続ける。
いつしか俺を越えてしまうんだろうか。
ぼうっと、彼の尾の菫腺を眺めながら、そんな妄想に耽っている。
時折、自分の足元に視線を落としては、彼の威を探し求めた若かりし空想と同じだ。
この影が、己の意志に反した動きをする瞬間を捉えたくて、自らを欺かんと不意を突き、背後を振り返って見たり、ひと際影が伸び広がりやすい、開けた丘陵で、そいつを拝んでみたり。
俺は、貴方に見守って貰えている。
どんな時も、我が狼は、傍らに寄り添ってくれていて、
いざとなれば、私の身体を借りて、この世に降り立ち、その力を振るってくれる。
だから、自分自身がどれだけ駄目でも、この堕とした影にだけは、誇ってよいのだと。
そんな風に、己を慰めていたっけ。
しかし、彼は一向に、振り返ることをしなかったのだ。
いつしか俺達はLyngvi島の中枢へと至る。
“此処が…?”
Teusが、唯一その存在を示唆していた場所に巡り合えた。
神々の憩いの場。球技を楽しむ会場とだけ説明があった領域だ。
余りにも殺風景で、スポーツに興じ、熱狂する盛り上がりを、耳の裏で想像することは難しいが。
間違いあるまい。
岩盤で基礎を整えられ、盆状に窪んだ円形の闘技場が見渡せた。
けっこうな広さだな。今の俺でも、楽しく走り回れそうか。
等間隔に打ち立てられた灯台によって囲まれ、揺らめく炎によって中央が照らされている。
その灯台一つ一つは、入念に調査する余地があると思った。
ここに来て、初めて目にした人工物だ。
高さは俺が目線を僅かに越えるばかりであったが、それを石レンガで造り上げているのには、ちょっと興味を惹かれた。中々に慎ましやかで、ヴェズーヴァに聳えていても、違和感がない。
そのどれかに、Teus夫妻が腰を落ち着けていると考えるのは、自然な発想だろうか。
思っていたよりも、嫌悪感を抱かなかったので、俺はほっと胸を撫で下ろしていた。
ただでさえ、気候条件に精神を追いやられていた所に、これは地獄に仏という奴だ。
此処に寄り付きたくないとなっていたら、到頭俺は、初めに漂着した海岸付近で、ひたすらに太陽を恨みながら、心身共にすり減らす日々を送っていただろう。
そうでないなら、少なくともこの塔は、俺に貴重な日陰を齎してくれる。
石畳は、俺により貴重なひんやりとした寝床を授けてくれるのだ。
“……。”
舞台の照明から逃れようとするように、靡く尾が影へと隠れようとする所で、初めてSkaは俺の方を振り返った。
ああ、なるほど。
ようやく、この島の全貌が理解できた。
つまる所、Teusは、此処にはいないのだな。
塔と塔の間に、俺が今辿ってきたような一本道が同じような風に伸びているのだ。
その先で来客たちは、その先の何処かでの滞在を許され、気が向いたときに、中央の球技場へ赴き、スポーツを楽しむ構図になっているのだろう。
俺は海岸がスポーン地点であったが、二人はどんなところで過ごしているのだろう。
ちゃんと招待客に相応しい歓待を受けていると良いのだが。
そう言えば、あいつはこの球技場が気に入らないとぼやいていたか。
自分が観戦すると、面白くなくなってしまうから。
先の憶測は嘘だ。彼がこの塔に腰を落ち着けることはあり得ない。
彼の案内無くては、俺は此処で立ち往生をさせられていたに違いない。
詰まり気味の鼻で、Skaの痕跡を瞬時に嗅ぎ分けられたか、正直疑問だった。
“フシュッ…”
わかった、今行くぞ。
柵なんかは設けられていない。石段を降りてゆくと、そのまま試合の行われる中央へ入場できるらしかった。
観客の娯楽としての競技というより、誰もが自由に参加できる、寧ろ公園のような場所であると推察できる。
案外、俺は本当に招かれた客であるのかも知れないな…
ザッ…
“……?”
しかし、此処に来て唯一とでも言うべきだろうか。
俺はこの球技場に不愉快な感触を覚えたのだ。
何だ?この土…敷石、なのか?
踏みしめると、それに従って石が除けられ、足先が僅かに沈む。
こんな所で、人間は走り回ったり、機敏な陽動や牽制を披露できるだろうか。
色は判別のしようがなかったが。
踏みしめた感覚が、過去のどの土地、どの風景に結びつけて良いのかと困惑した。
背筋には言い知れぬ寒気を覚え、臭いを嗅ぐことは、決してするまいと心に決める。
“ま、待ってくれ、Ska……”
今来た道とは反対側の塔の裏手へと消えていく彼の影の一部に取り込まれようと、
俺は急いで球場を後にしたのだった。




