273. 歌鳥の祝福 2
273. Songbirds’ Blessing 2
こうしてゆったりと沖合を流されていると、やはり初めに思い出されるのは、俺の縄張りを一緒に闊歩して回った、Teusとの夏の終わりだ。
海水浴のそれ自体は、好きでは無かったが。
北海岸の海辺へ、避暑地へと彼を誘ったのは、俺の方からであったか。
確か…あれはまだ、ヴェズーヴァが、西岸を漂っていた頃だったな。
夏の日差しに耐え兼ね、水辺と日がな一日休める洞穴を求めての移住だった。
彼はそれを、とびきり喜んでくれたが。
生憎、海上での振舞を心得ていなかったのだった。
Lyngviでも、彼は水辺での遊びに興じるだろうか。
だとしたら、それは彼が元気を取り戻すきっかけに転んでくれることを祈っても良いか。
自分から誘うことは、気が引けるのだけれど。
最高の旅路の中でも、とりわけ思い入れに強く残っている。
あの時は良かった。
檻の中へ閉じ籠った俺にとっては、そこへ一緒に立ち入ってくれるお前だけが、全てだったから。
他のことは、本当に何も考えずに済んでいた。
お前だけいてくれたなら、それだけで良かったのだ。
俺は都合よく、お前の住む世界のことなど、何も知らないふりをして。
ヴァン川の対岸のことなんて、好奇心すら打ち勝てぬ、決して立ち入ることの世界だと信じていた。
それがどうだ。
お前のせいで、俺は気づけば沢山の結びつきに、
こうして拘束されてしまっている。
お前がいなければ。
Skaはきっと、番と仔狼たちに囲まれ、長老様と幸せな日々を送っていただろう。
お前は、自らを犠牲にした代償として、Freyaを巻き添えにすることも無かった。
俺は、Garmと命のやり取りをすることも、無かっただろう。
Siriusも、きっと憧れを抱いたままで、済んでいた。
そして、神々の前に、俺は自らの姿を晒すことも無かっただろうに。
俺をこうして、縄張りの外へ至らしめることも、決して。
お前さえ、いなければ。
道中を走っていた時と違って、泳いでいる間の思考は、何だか切羽詰まってしまうな。
別に、息継ぎに苦労している訳では無いのだが。
多分俺は、次にお前を目にするのが怖いのだろうと思う。
無理やりにでも、お前を第二の故郷から引き裂いた俺を、恨んでいるだろうから。
憎まれ口は、幾らでも聞いてやれるが、俺はお前のように、相手を安心させるような言葉をかけてやることは出来ない。
お前と俺、それだけの世界であったなら。
或いは勇気を振り絞ることも出来ただろうか。
それも今は、正直億劫であると、お前の元へと至る道中での実感であった。
自分でも分かるのだ。お前とのやり取りは、嘗てのように、ぎこちなくなってきていると。
きっと、俺の前に姿を現した、彼らに毒され、
複雑に考え過ぎた挙句、身動きが取れなくなってしまっているのだろうと思う。
多分俺は、お前に伝えたいことが、あったような気がしたのだが。
それが思い出せない。
いつか、俺とお前だけが、対峙する世界で巡り合えれば良い。
そんな、いつでも叶いそうな小さな願いが、此処で実現できないことを俺は陰ながら喜ぶべきなのだろう。
「ふぅー…」
無事、Lyngvi島へ上陸だ。
毛皮を摩る生暖かい風で、俺はこの土地が故郷とは凡そかけ離れた気候を有していることを確信した。
濡れの乾きこそ早いだろうが、妙に気持ち悪く纏わりつく夏の初めのそれに似ていて、俺は思わず顔をしかめる。
頬を撫でる心地よい冬風は何処へ行った。
俺をわくわくさせる、大自然の暴威は、この海域の支配を諦めてしまったのか。
少しでも、俺の美意識に媚びて来るような、冬は…?
そんな風に神経を研ぎ澄ませても、惨めで虚しいだけだった。
身体を勢いよく震わせることすら忘れ、俺は呆然と独り言を呟く。
「…見た目の距離の割に、時間がかかってしまったな。」
走るのと違って、筋肉の操りが凡そ洗練されていない。
なんだか急に動きが緩慢になって、どっしりと身体が重くなった気がするのは、きっとそのせいだ。
どれ、けっこう泳いだのでは無いか。
そう思って振り返ると、彼女は忽然と姿を消していた。
再び浮上したかに思えたが、大空を見渡しても、その影は雲間に隠れた様子は無い。
ひょっとして、海中深くに、沈んでしまったのだろうか。
俺が海に飛び込むまで、待ち続けていてくれたのだとしたら、申し訳ないことをした。
「……。」
気付けば、絶海の孤島と呼ぶに相応しい岸辺で、俺は陸地から目を背けて、立ち尽くしていたのだった。
俺の追放の土地が、此処で無くて良かったと、心の底から感謝している。
Odinも、狼の生態には、多少の心得があるのだと今は少しばかり感心したのだ。
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いつまでも、入り口で黄昏ている訳には行かない。
俺は島内の探索を開始した。
と言っても、未開の地とは程遠いようで、目の前には既に、獣道よりは幾らか整備された一本道が奥地へと続いている。
所謂Lyngvi島への来客たちが、皆揃ってここから入島するのかは、甚だ疑問ではあったが。
奇をてらわず、これに従って歩いて行けば、大丈夫だろう、きっと。
ざっと周囲の状況を耳から探ってみたが、目だった動きは今のところ一匹だけだ。
彼でほぼ間違いないだろう。そいつに合流を果たせば、そこからTeusとFreyaの居場所を突き止めるのは容易だ。
臭いに関しては、嗅いだことの無い臭いで完全に飽和してしまい、使い物にならない。
見たことの無い樹木に片っ端から毛皮を擦りつけ、臭いを収集したい衝動に駆られたが、それは一度腰を落ち着けてからだ。
此方から居場所を知らせることは、出来る限りしたくなかった。
本当に無人島であるとは、これっぽっちも思っていないからだ。
Lyngvi島が本来の目的をしっかりと果たしていて、実際、屋内で休んでいるだけで、実は二人以外にも滞在者がいました、なんてことになれば、目も当てられない。
俺は自分が、縄張りの外をうろついているのだということを、しっかりと弁えなくてはならなかったのだ。
足音も、正直Skaの耳に届くように立てて良いものかも迷って、結局忍び足で進んでいる。
こんな図体の大狼が、堂々と通りを歩いているのだから、殆ど意味は無かったが。
警戒心を解くのは、彼らとの合流を果たしてからで、全く遅くない。
勝手な想像では、もう少し進んだ先に、ヴェズーヴァと似たような建造物の林立が、ちらほらと見え始めるのだろうと考えていた。
そこまで辿り着いたら、一度高台に登って、状況を探ることにしようか。
ヴァナヘイムの内地を見渡した時のように、気付かれずに済むには、天候が味方せねばならないが、日が暮れるのを待つのも惜しい。せめて、彼の位置さえ把握できれば…
「……?」
俺は全身を強張らせて、歩みを止めた。
誰か、此方に向かって来る。
二足歩行、ではない。
それだけで、もう殆ど緊張の糸が緩みかけてしまっていたが。
その姿を目視するまでは、此方から吠え声を上げてはならないと言い聞かせる。
ざっ、ざっ、ざっ…ざっ…
軽快な足音、目を瞑れば、あの洞穴の隣の岩の上で、お前の到着を待つ日常が瞼の裏で熱い。
“……?”
“おお…Ska…!”
良かった!
“無事だったのだな!”
見たところ、一週間以上の隔離にも拘らず、痩せこけた様子もない。
食糧の確保が出来ている何よりの証拠だ。
此方の存在に遅れて気づいたらしい彼は尻尾を高々と上げ、遠目から俺を凝視し、動きをぴたりと止めた。
第一村人、発見と言ったところか。
これで、Teusを探す手間が省ける。
さあ、俺を彼らの元へ連れて行ってくれ…
“……。”
俺の方から一歩踏み出した刹那、ようやくと現状を理解したSkaは捕食者と目が合った獲物のような素早さで踵を返して駆け出したのだ。
“Teus様ぁーーーーーーーーーっ!!!!!”
“お、おいっ…”
ちょっと待て。何処へ行くんだ。
“Fenrirさんがーーーっ!!Fenrirさんがーーーーっ!!”
弾けんばかりの鳴き声を上げ、主の元へ爆走する彼の足音は、初めて出会ったばかりの頃に披露された、狩りの腕前を彷彿とさせた。
張り切り過ぎだ。空回りして、上手く走れていない。
“Fenrirさんがぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーっっ!!!!”
“はぁ……”
俺も、走って着いて行けば良いのだろうか。
お前には、この島の先触れを頼みたかったのだが。
まあ、これで二人も存命であることが確定した。
一先ずは、それらしい招待を受けられたと言って差し支えなさそうだな。
“まずは、もう少し涼しい場所を探そう……”
トロットで追走を開始する前、俺は今更に毛皮をぶるぶるっと震わせ、疲労に満ちた溜め息を吐いたのであった。




