271. 避寒 3
271. Winter Retreat 3
「…ようやく、出発の準備が整ったようだな。」
ちょうど、熱の帯びない陽の光にさえ、煩わしさを覚えた昼下がり。
彼は、尾を高々と上げたSkaの先導に従い、Freyaを毛皮の逞しい椅子に乗せて、姿を現した。
もうじき、狼すら身を埋めるほどの大雪に見舞われるこの土地では、そんなことも難しくなる。
彼女を気軽に外へ連れ出せるのは、これが最後の機会だったと思った。
“Freyaさん、乗り心地、悪くないですか?”
何気ない、だが。
久しぶりに、そんな光景を見せられたような気がする。
“ほらTeus様、昨日の大嵐が、嘘のようですね…!”
それが、彼が心から望んだ日常であった。
Skaは、長老様に先立たれると、心の何処かで、覚悟していた。
そして間違いなく、Teusよりも先に、楽園へと至るだろう。
その日まで。二人の接合点となれたことを、心から喜びながら。
散る。
少し、涙腺が痛んだ。
どうして突然、そんなことを考えさせられたのだろう。
それまで、Ska。
お前の翼が、どうか星界まで羽ばたかんことを。
できるだけ、気怠い欠伸を喉から絞り出して、俺は頭を擡げる。
「では、始めるとしようか。」
準備は、既に済んでいる。
とは言っても、特段俺に、何か負担を強いられている訳では無かった。
ただ、この万芸に通ずる扉の前に立って、案内人の役目を果たせば良い。
「この箱の奥が、今日は目的地に繋がっているの…?」
「そういうことらしいな。」
昨日まで、そのような役目はこいつに与えられて無かったと記憶している。
しかし入り口付近の壁や床板には、それらしき文字列が刻み込まれていた。
俺達の門出を手助けする為の、転送の言葉と見て、間違いないだろう。
「きちんと奥行だけ歩けば、反対側に出られると良いのだが。」
「そんなに長々と書いてあるの…?」
廃屋の落書きを一瞥するように、まるで内容まで読もうとはせず、彼は指で彫られた傷跡をなぞるだけだ。
「Fenrirなら、もっと短く、強力に書けたんじゃない?」
「ふん…かもな。」
実際、目的地さえ手紙などで記してくれさえすれば良かったのだが、そうも行くまい。
飽くまで、招待された者だけが立ち入ることを許された、秘密の楽園であるという訳だ。
その居場所は、限られた者にしか分からないようになっている。
だから、冗長に書かれているのだ。
このトンネルを、何気なく通り抜ける風を装いながら、目的の一文を盗み見るのは、容易ではない。
ダミーテキストも、恐らくは多分に仕掛けられていて。そのどれもが罠とでも言うべき、到底、楽園とは程遠い土地に設定されていると想像できる。
少なくとも彼らは、今までそうやって、セキュリティの防壁を築いてきた。
しかし、俺なら。
Odinとの対話を、曲がりなりにも全て躱して見せた、大狼なら。
或いは。あっけなく見破ってしまうだろうか。
彼らなら、そう考えはしないだろうか。
…考え過ぎか?
まあ、行けば分かるか。
俺は警戒心を周囲に伝搬させてはならないと判断し、自らも尾を高々と上げて、一歩踏み込んだ。
「ついてこい。先鋒は、俺がやる。」
“…後ろは、任せたぞ。”
“承知しました。”
「ああ…Teusよ。ちゃんと、群れの狼たちには、挨拶したのか?」
暫く、会えないだろうからな。
Skaからは、お前が不在となることはきちんと伝えてあるが、
総出で見送りに来ていると己惚れて良いのは、お前の特権であるのだぞ。
「……。」
「ねえ、Fenrir。」
「何だ。」
「やっぱり…俺だけ、此処に残ることは、出来ないかな…?」
「……。」
「そうしたいのなら、そうするが良い。」
「…馬鹿。」
…?
「もっと、怒ってよ。この大馬鹿野郎って。怪我するぐらい、引っ叩いてさ。」
「…無理やりにでも、連れ攫ってよ。」
俺は暫く、無礼を承知で、彼の顔を穴の開く程見つめた。
どうしよう、本当に、怒鳴りつけてやろうか。
俺はお前の面目を保つ為だけに、Torという男に、怒りをぶつけ損ねた。
その落とし前を、此処で晴らしてやっても悪くない。
が…
「うわっ……?」
代わりに俺は、最近目深に被る事をしなくなったフードを咥え、仔狼のようにひょいと拾い上げた。
「…そうだなTeus。俺も、お前と全く同じことを考えていた。」
「転送の力を持たぬ、お前とFreyaだけ。離れ小島へ追放することは出来ないか、と。」
「えっ…?」
ばれてしまっては、仕方がない。
「俺も、俺だけ此処に残ろうかと、企てていたのさっ!!」
「っ!?…ま、待って、そんな…!!」
大きく身体を揺らして、檻の奥底へと駆けだそうとする素振りで、流石の彼も泡を喰ったようだ。
「離してっ!!Fenrirっ!いやだいやだいやだっ…それだけはっ、待ってっ!!」
「クックック…」
「そんな真に受けるなよ。お前が下らないことを抜かすから、冗談に乗ってやっただけだ。」
「分かるだろ?俺もお前も、結局一匹になりたがるのさ。」
「……。」
「悪かったな。お前がまだそのことを、根に持っているとは、思わなかった。」
「別に…思ってない。」
「そうだろうな。でなければ、お前は黙って、俺に仕返しなど、しでかしていただろうから。」
そう吐き捨てるように言って、しかし怪我などさせては堪らないと、恭しく彼を地面に降ろす。
「もう良いよ…何もしないから。何も…」
「俺は君に対して、何も出来ない。」
「そうかもな。」
「Fenrir…」
「必ず、帰って来れるよね?」
「皆、最後には。」
「Skaも、Freyaも、Fenrirも、皆……」
「……。」
「その時は、お前が自力で、帰るんだ。」
「必ず連れて、帰ってこい。」
「お前の招集だ。皆、従うに決まっているさ。」
この世界を、お前に抱かれることなく、去らせてなるものか。
孤独に、鼓動を打ち鳴らせたままで。
“そういう訳だ、長を慕う群れ仲間たちよ。”
どうか、余生を謳歌する隠遁者に相応しくあれ。
暫しの休暇と行こうではないか。
出発前は、欠航したくなる程億劫になるのもわかるが。
行ってみれば、お前は死神の存在に一切怯えることなく、温かな海岸で生を享受できる日々に、きっと気分が晴れる。
もうあの土地に戻りたくないと我が儘を垂れるお前を、期待しているぞ。
「じゃあ…」
「さよなら。みんな。」