269. 歴史の彼方
269. Fade from History
それから暫く、Teusはそのリュングヴィ島への遊説の承諾を先送りにしていた。
喩え俺が、その土地の居場所を自力で嗅ぎつけたとしても。
自分の同伴を伴わなければ、俺はとても一匹で訪れる勇気など有りはしない。そんな確信故の傲慢さだった。
彼は努めて、今までの、いやそれ以上の生活を続けようとしている。
ヴェズーヴァの領主として、Skaの率いる群れの保護者として、
ヴァン神族の長老の後継として、Freyaの妻として、
大狼の友として。
別に、今までの生を彼が漠然と生きたとは少しも思ったことは無いが。
俺には彼が、残りの時間をしっかりと自覚したように、その変化を受け取れたのだった。
皆、幸せそうにしている。
出来る限り、Freyaと一緒に日中はSkaたちと過ごし、日が暮れれば、彼女と図書館で談笑を交えて読書に耽る。
そして傍に居て欲しいと口にこそしなかったが、やたらと俺に話しかけたがる。
そのくせ、例の話はおくびにも出そうとはしないし、俺がその素振りを見せれば、狼のように鋭く察しては、Skaに話題を振り替えて避けようとするのだ。
図書館を拠点にしろと勧めたのは、一度屋敷からTeusを遠ざける意味合いもあったが、あのボロ家ではとても寒さを凌げまいと思ったからだ。
手放すには惜しい空間ではあったが、別に俺は外でも眠れるし、構いはしない。
手紙の配達は、その日を境にぱたりと無くなった。
俺が、Odinの招待を快諾するような発言をした為だろう。
後は、旅程の話を進めて欲しいのだろうなと思うのだが。
アース神族の領地であるその土地では、大狼の訪問の知らせを受け、今頃大騒ぎしているだろうか。
或いは、彼方もTeusと同様、俺が真面目に持ち掛けられた話を受け取るとは思っても見なくて、どちらにせよ大混乱に陥っているとか。
いずれにせよ、俺の発言が、物語の流れを、世界の表情を、大きく変えた。
与えられ続けた試練に翻弄されるが儘の弱者に思えた、泣き虫の狼が、初めて観測者に対して牙を剥いたのだ。
少なくとも、そんな高揚感が、あの日だけは胸を熱く滾らせたのだ。
それが、日に日に萎んでいくのが解る。
Teusに充てた手紙も、見向きもされなかった。
今思い返すと、何故自分がそんな手段に頼ったのかと馬鹿らしく思えて来るが、その時は面と向かって話が出来ない都合の良さに酷く魅力を感じたのだ。
もう、兄弟暗号は期待された役割を果たさないと知っていたが、その方が彼が目を通そうとしてくれる気がして、敢えてそれで綴った。
検閲の心配をする必要も、もうあるまい。
俺は、神々の思惑通りに動いている筈なのだから。
それに竿を刺そうとしている彼を説き伏せるような内容に、表面上でも、そうなっていれば良いのだ。
別に、詩的に情緒を張り巡らせることはしていない。
俺の方からは、これはGarmに邪魔されたお前とFreyaの旅行の埋め合わせであると伝えさせてもらった。
小島であると言うのなら、浜辺もあるのだろう。
まだ今なら、あの時期と同じぐらい温かな空の元で、懐かしいひと時を過ごせるかもしれないから。
行ってみて、気にいらなければ、すぐ此方に帰還すれば良いじゃないか。
軽い気持ちで、お前の大好きな冒険にでも繰り出すつもりだ。
手遅れになる前に。
“で、ですが…”
“別に、そこに永住しようというのではない。”
新たな狩場を求めて彷徨い歩くことを、お前たちは躊躇わないはずだ。
居心地の良さだけを拠り所にして暮らすような群れの長では、無いだろう?
“お前には、Teusと彼女の側近として、暫しの間働いて欲しいだけなのだ。”
Skaも、この提案には乗り気では無かった。
そろそろ、自分の与り知らぬところで繰り広げられる攻防に置いてけぼりを喰らうことに、我慢ならなかったというのもあるだろうが。
それ以上に、彼は夫妻に残された日々の尊さを案じていたのだ。
“お前が察している通り、もうあまり時間が残っていない。”
“……。”
“Fenrirさん…Freyaさんは、本当に冬を、越えられないとお思いなのですか?”
“悲観的になってはならない。希望は持っている。”
“しかし…”
Teusが知らぬふりをしているだけで。
老狼と同じ、ぼやけた瞳に湛えた光が閉じられ、
目に見えて、眠っている時間が増えている。
“すぐそこまで、やって来ているのだ。”
“……。”
藁の上の死が。
その言葉を、俺は呑み込んでしまう。
俺とTeusに責任がある。
彼女を、この土地から遠ざけなくてはならない。
“厳しい冬の寒さから、彼女だけでも逃れられるというのなら有難い。”
毛皮を纏わぬ人間の体温を、ヴァナヘイムの冬は容赦なく奪っていくことだろう。
温暖な気候と聞いている。きっと彼女の免疫にも、良い方向へ作用してくれるはずだ。
日照時間も、今よりだいぶ長くなっていると良いな。
俺は大好きだが、冬の物憂げで陰った景色では、とても希望を抱けたものではあるまい。
“少しでも、少しでもあいつには…”
“…良い思い出を…”
TeusとFreyaが良い思い出を作ってくれるまで、そこで過ごさせてやりたい。
二日、三日になるのか、数週間になるのかは分からないが。
そう。多分俺以外の全員が、この提案に反対していたのだと思う。
しかし、それでは此処から前に、一歩も進めない。
猛吹雪を前にして、凍り付いて行くだけだ。
勿論、冬が俺を取り巻く世界から遠ざかることは、何事にも耐え難い変化であることは分かっていた。
俺は此処から、雪の臭いがもうそこまでやって来ている土地から、一歩だって離れたくなどない。
俺は、何処にも行かない。
そう、我が儘を吠えたてたい。
この季節を見逃してなるものか。
俺は、’青の世界’ の訪れを、誰よりも心待ちにしていたから。
まだ、そんな希望に心を焦がされている。
貴方に、会えるかもしれない、なんて。
冬を捨てる。
そんな幻想を拭い捨てるようにこの土地を後にするのも。
俺なりの老化、などと宣うにはそれこそ蒼いか。
しかし、成熟と言うくらい、笑って貰えるだろう。
“これは、交換条件であるのだ。”
神様としての大狼の地位からの追放だった。