265. これっきり
265. Not after this
Skaと合流してからのFenrirの様子は、至って普通だった。
群れの催促に口元を突かれ、吐き戻しを与える母親のように、また金属箱の奥には彼らの食事が湧いて来る。
それを、どういう訳か、初めにFenrirが口にすることでようやくありつけるように自らを律していた。
その権利は、本来Skaに与えられているものだと言って良い。
Fenrirがこの群れの中での立ち位置には酷く気を遣い、常に敬意を払おうとしているのは知っていたから、どういったやり取りがあって、譲渡されたのかは気になるところではある。
単に、毒味を買って出ているという帰結でも、十分納得は行くのだけれど。
それでも楽しい筈の彼らのひと時に、何処かぎこちなさを覚えていたのは事実なのだ。
或いは、本来食事って、和やかなものでは無いのかもしれない。
生き抜くために、貪るなんて表現が相応しいのなら。上位の狼から獲物にありつけるそれは、殺伐としたものである方が、健全な群れの生存には良い選択であると。
いずれにせよ、口出しするつもりなんて、これっぽっちも無い。
ただ、狼たちの間で暗黙のうちに了解されるその構図が、どうしても人間の目線で解釈されてしまっていけない。
俺は、大狼や、長老様の言葉に、もっと耳を傾けなくちゃならなかったんだ。
そんな風に自らの非を想い、塞ぎ込んでしまうぐらいには、
彼の言葉は致命的だった。
一体、あれは何だったのだろう。
全てが、納得が行かない。
面と向かわずではあったが、真に迫るような推論を、敢えて俺に聞かせたのも。
ヴェズーヴァのど真ん中で、幾らでも盗聴の余地を与えたのも。
まだ、俺の奇跡を信じてくれていることも。
そんな訳、あるはずは無いのに。
「ふぁぁ……」
日も登ってようやく緩んでくれた寒気と、
孤を描いて背凭れになってくれるFenrirの温もりも相俟って、強烈な食後の眠気が襲ってくる。
陽だまりに脳を溶かされ、気が狂いそうだった。
隣で座ってくれているFreyaと一緒に、このまま狼のように、幸せな惰眠を貪りたい。
痙攣する瞼を瞑り、彼女の手など握ってみようと右手を伸ばす。
と思ったら、巻き付けたマントが邪魔をして外に出せなかったので、あっさりと諦めてしまった。
チャッ、チャッ、チャッチャッ……
“うっふ…うっふ…”
……?
爪が石畳を擦る音が近づき、控えめな吠え声で目を醒ます。
「ん、どうしたの?」
ぼやけた視界に、その狼は、ゆっさゆっさと尻尾を振り、じっと此方のことを見つめていた。
「Ska…じゃない。」
「Sirius…か…?」
首を傾げたその表情。間違いない。
顔つきはだいぶ父親の面影を脱ぎ捨て、寧ろYonahに似ていると分かってきたのが、最近の発見だ。
狼の顔立ちに特徴を見いだせるようになっただけでも、見守る立場として成長できた気がして、正直嬉しい。
まだ、ちょっと顔と身体のサイズのバランスが大人の狼に及ばないので、そこからも産まれて間もないと判断できる。
「どうしたの?Fenrir寝ちゃってるかも…」
そんな訳は無いと思うけれど、今ので彼を呼んであげたつもりだ。
“ぴー……”
しかし、彼の主張は、そうでは無いらしかった。
「え…?」
Siriusは唐突に身をくねらせ、勢いよく自分の前に転がって腹を見せる。
「…撫でて欲しいの?」
珍しい。まさかSka以外から、そんな催促を受ける日が来ようとは。
昨日の宴で、狼たちとFenrirの距離が、また一段と縮まった気がしていたけれど、
出来るだけ静観を貫いていた自分も、知らぬ間にお零れを頂いていたらしい。
或いは、父親の蕩けた様子をずっと見守って来た仔狼の、自然な末路であるのか。
「もちろん、いつでも撫でて上げるよ…」
何れにしろ、そんなのいつだって大歓迎だ。
恋愛ゲームじゃないけれど、Siriusとの親密度は急上昇中という訳だね。
身を起こし、今度は手間を惜しまず外套をきちんと払い除けて、右手を薄くて柔らかな毛皮に伸ばそうとする。
「違う。」
「……?」
と、頭上から冷徹な一吠えが降って来た。
「お前に要求しているのは、そういうことじゃない。」
「え、違うの…?」
って言うか、やっぱり起きてるじゃない。
何でさっき、返事しなかったのさ。
「脚の方だ。」
「あし…?」
肉球を天に向けた四肢を凝視するも、彼の意図が汲み取れない。
「ねえ、Siriusは何て…」
「右脚だ。皆まで言わせるな。」
「…ああ、そうだったのか。」
俺はようやく、義足の調子が良くないと言われていると気が付いた。
「ごめんね、ちょっと見せて…」
俺は木彫りの足首をそっと掴むと、注意深くその表面をなぞった。
木目に罅が入って弾性を失っていないか。毛皮に覆われた接合部に軋みが無いか。慎重に力を加えてSiriusの反応を窺う。
幾ら強力に祝福されているとは言え、元はFenrirが流木から削り出した模型の破片だ。
未だ彼の脚の代わりとして機能してくれているものの、ちょっとでも違和感があれば、それは彼が不自由を覚える前に解消してやらなくてはならない。
「ん、こいつだな…」
程なくして、その居心地の悪さは突き止められた。
よくよく目を凝らすと、肉球と爪の間に、小さな石ころが詰まっている。
「何か爪の間に挟まってたよ。」
しっかり喰い込んでしまって、ぐいぐいと押しても取れてくれなかったが、
何度か指ではじいてやると、そいつは目にも留まらぬ速さでぴゅんと何処かへ飛んで行ってしまった。
驚いたことに、Siriusには、忌まわしい異物が取れたのがすぐに分かったらしい。
まるで、足先にまできちんと感覚があるみたいに、ぱっと顔を輝かせたのだ。
「うん、もう大丈夫だよー。」
“ウッフ!ウッフ!”
彼は控えめに尻尾を振って、甘え気味に耳を寝かせると、騎士の接吻が如く俺の右手の臭いを嗅いでから、軽やかな足取りで家族の元へと去って行ってしまった。
「最近多いのだ…此処ら一帯で過ごす時間が増えた為だと考えている。」
「森の中を駆けまわっていれば、自然と抜け落ちて行くだろうが、そうでないなら、気になってしまうよな。」
どうやら俺が知らなかっただけで、初出の悩みでは無かったらしい。
今まではFenrirに掃除して貰っていたのだろうか?
だとすると、こんな細やかな作業はかなり骨が折れただろう。
こればっかりは、指がある自分のほうが、向いているのだと思う。
Fenrirもそう考えて、俺に頼むようSiriusに促したのに違いない。
「整備の行き届かぬ石畳の上を歩かせるのは、Siriusにとっては少々酷であるのだ。」
「そうだったんだね。全然気づいて上げられなかった…」
彼らをヴェズーヴァに引き留めることが、益々後ろめたいものになってしまって居た堪れない。
先までの自省もあって、俺は大きく溜息を吐いてしまった。
「冬まで、もう少しの辛抱だ。」
「深雪もまた彼の脚には試練であるだろうが。それでもきっと乗り越える。」
「そしてそれが過ぎれば…此処での暮らしも、多少は増しになるだろうさ。」
「うん…」
「そうだね。」
「…そう信じたい。」
右手を持て余した。
今度は彼女の手を握って、靄のかかった思考を抱いたまま眠れそうだ。