264. ただの風 3
264.Just the Wind 3
「気になったのは、そんなところだが…」
興味の醒めたような目つきで、自分が刻んだ呪文の復元に大きく爪で斜線を引いて無効化の証とする。
「あいつらは、お前の監視に余念が無いとだけ言っておこう。」
「と言うと…?」
彼はすぐにはその質問には答えず、代わりにぼんやりと宙を見上げて、暫くその場に静止した。
ああ、誰かがこの通りを横切っているのかな。
最近になって、やたらSkaがそういった素振りを見せることが増えている。
彼の中では、片時も自分のボディーガードとしての責務を忘れてはならないとしているのか、この世ならざる存在を察知した時は、必ずその英霊が遠ざかるまで、視線を外そうとしない。
偶にそんな番狼らしい一面を見せてくれるぐらいだったら良いのだけれど、どうやら本当に、もうそこら中にいるらしい。
不憫なことに、四六時中警戒心を剥きだした彼の疲弊は目に見えていて、それが群れの短期的な移住を検討するきっかけになったのだった。
しかし、彼がじっと見つめている相手はもっと具体的だった。
「鴉の巣が増えた。お前のご近所さんの、庭木に。見た限り4つほど。」
「えっ…」
ちょっと意外だった。
知らぬ間に、監視の眼が強化されていただなんて。
しかも対象はFenrirじゃなくて、俺の方であると来ているようだ。
「ふふん。よっぽど、俺達の兄弟暗号に出し抜かれたのが、癪に障ったらしいな。」
「……。」
「Dacă este așa, este în regulă? Vorbești atât de deschis.」
「Nu-mi pasă. Ceea ce fac în afara orelor de examen este treaba mea.」
Fenrirは俺の眼をじっと覗き込むと、鼻を鳴らして、ニヒルに微笑む。
「安心しろ。思うに、Odinの瞳は、一つだけだ。」
「どいう言うこと…?」
「Lokiの捕獲に精いっぱいってことだよ。」
……?
「お前、本当にあいつが、Odinの招集に応じたとでも、思っているのか?」
「えっ?だって、Torがそう言って…」
「お前、本当にあいつの友達だったのか?」
「俺が思ってただけかも。」
「おい……」
割きりの良すぎた返事に、Fenrirはあきれた様子で首をゆるゆると振る。
「要は、建前ってこと?」
「立場上、そう言うしか無かったんだろう。」
「じゃあ…まだ、捕まってない…!?」
「落ち着け。流石のあいつも、今は俺達にちょっかい出すどころじゃ無いだろう。」
あいつらの手から逃れたければ、別世界へと転がり込むしかない。
隠れ家とするのに最適な土地として何処を選んだのかは分からないが、
少なくともそれは、此処では無いだろうよ。
「…しっかし、逃げるってことは、後ろめたさがあるって言ってるようなものだと思うがねえ…」
「Fenrirは、逃げなかったものね。」
「馬鹿言え。俺だってヴァルハラに招集されるのは御免被る。」
「そっか、だから逃げたのかも。」
「ふん、精々抗うが良いさ…」
吐き捨てるようにそう締めくくる。
「まあ、痕跡に関しての話は、そんな所だ。」
と、彼は唐突に腰を中途半端な高さに屈め、僅かに震えた。
じょぽぽぽぽ……
「えっ……!?」
もわっと湯気が立ち昇り、俺は思わず声を上げる。
一瞬、何が起こったのか分からず、呆気に取られる。
なんとFenrirが、道のど真ん中で放尿したのだ。
縄張りのマーキングが目的でそうしている訳では無さそうだし、単に我慢できなかったのか?
確かに今朝は冷えたから、急に尿意が湧き上がって来たということもあるのかも知れない。
ただそれにしたって、なんて行儀の悪いことするんだ?
散歩中の犬ですら、もうちょっと道脇の木の根とかでするものだろうに。
中々お目にかかれない光景なので、その一部始終をまじまじと眺めていると、刺々しい口調で文句が飛んできた。
「なんだ。ジロジロと見るものじゃ無いぞ。」
「いや、見せつけられているんだけれども…」
「仕方ないだろう。臭いを消すには、こうするしかない。」
「臭いって、Torの…?何で消す必要が?」
「Skaが嗅ぎまわる。」
「えっ…?」
「一応建前として、昨日は除霊の術式を街全体に書き綴るから、ヴェズーヴァからは離れてくれと伝えていたのだ。」
「無事成功したようだから、次第に英霊たちもこの土地を去って行くだろうってことで、昨日はお客様に気持ちよく帰って貰う為にも、盛大に祝ったことにしている。」
「あれくらい、ご馳走の臭いで溢れさせないと、レージングとやらの臭いは掻き消されなかったからな。」
「そう…だったの…」
ちょっとショックなことを聞いてしまった。
半分は、演技だったんだ。
あんなに群れ仲間たちと打ち解けて、楽しそうに吠え合っていたのに。
「余計な心配をさせたくないのは、俺も同じなんだ。」
「二度と、彼らが此処にやって来ることが無いように、ヘルヘイムとの接合点を切り離す方法を考えようじゃないか。」
状況を整理しよう。
これからに目を向ければ、結局自分たちで何とかしなくてはならないということだ。
でないと、あいつらに変に付け込まれてしまうってことが、今回で良く分かっただろう。
だから今は、それも兼ねて、現地調査を入念に行っていたと思ってくれ。
「…ほら」
……?
「乗れよ。寒かったのではなかったのか?」
「…もう、冷え切っちゃったよう。」
「背中に誰か乗せた状態で、小便なんて、居心地悪くて出来ないだろう。」