264. ただの風
264.Just the Wind
翌朝までは、ぐしゃぐしゃの泣き顔を誤魔化すように宴が続いた。
対岸から戻ったSka達にとっては、一体何のことやらと面喰らったことだろう。
俺自身も、酔っぱらってもいないのに、こんな風に夜を明かすだなんて、思ってもみなかった。
誰も失うこと無く乗り越えた苦難の大きさに、浮かれ回って、それはもう手放しに喜べたのだ。
けど何よりも周囲の狼たちを戸惑わせたのは、Fenrir自身が、それは楽しそうにご馳走を平らげ、自ら遠吠えの合唱に彼らを誘う気概を見せたことだと思う。
それはもう、楽しそうで、幸せそうで。
怖いものなんて、初めから無かったのだと気づかされた子供が見せる笑顔のように純心だった。
どうしちゃったんですか、Fenrirさん。
Skaがそんな顔をして眼を瞬かせるのも、無理はない。
俺は意味ありげに笑って、一層立派な毛皮を蓄えて勇ましくなった彼を抱きしめるのだった。
心なしか街中に佇む住民たちも、夏至祭の続きを楽しみ行き交う大通りの雑踏を聞かせてくれていたような気がしている。
「さっむ…」
しかし、あれだけのどんちゃん騒ぎであっても、やっぱり酒が入っていないと、昼前には眼が冴えてしまう。
俺は広場のベンチでSkaに寒さを凌がせて貰いながら、夜を明かしたらしい。
あの大狼は噓吐きだ。
彼は俺のいびきが、耐え難い程にうるさく、とても耳を塞ぐことの出来ない動物たちは、堪らず距離を置いて眠ろうとするだろう。
我慢して、自分の毛皮の懐で温めてやっていることを、努々忘れるな、と。
でも実際は、こんなに沢山の狼たちが、自分の周りにくっついて、暖を取ってくれているんだ。
そりゃあ、ちょっとは五月蠅いと思っているのかも知れないけれど。
絶対に大袈裟だ。多分、きっと。
「うぅっ…」
Skaたちを起こさぬよう、こっそり広場を抜けると、忽ち寒風がボロボロのマントをすり抜け、身体から熱を奪い去ってしまう。
昨日の騒動のせいで、背中に大きな穴が開いてしまった。こいつも新調して貰わないと。
まあ、強請ればきっと、すぐさま上等な外套を寄越してくれるに違いない。
Fenrirのご機嫌を損ねた埋め合わせは、どんな形であっても行いたいと彼らも考えているはずだ。
「ついでに、冬支度に必要な調度品も、まとめて頼んどこう…」
ヴェズーヴァは、既にいつもの閑散とした街並みを取り戻している。
空は雁の腹色をして、相も変わらず狼たちが喜びそうな寒風を川岸から運んでいるのだろう。
今俺の視界に移っている景色は、きっと実際のそれと変わりない描写をしていると思った。
「……?」
屋敷の面する通りに出ると、Fenrirがいた。
てっきり図書館に帰ったのだと思っていたけれど。
俺に用事があるなら直接訪ねて来るだろうし、Freyaにでも逢いに来たのかな?
それにしては、何やらこそこそと嗅ぎまわっているようだけど。
「おはよう…Fenrir…」
普通の相手であれば、声を掛けるのを躊躇うところだが、よもや彼の耳が俺の接近を捉えていないはずが無い。
彼方としては、この挨拶は了承済み。変に気を遣う必要が無いのは楽だった。
「うむ、おはよう。Teus。」
昨日のあどけない笑顔の持ち主はどこへやら。
彼は一瞥をくれて、ぶっきらぼうに一言だけそう返す。
地面に鼻をすれすれまで近づけ、何やら丹念に臭いを嗅いでいる。
珍しいと言えるぐらいには、一緒に過ごして彼の生態を見守って来たつもりだ。
狩りが始まる時には既に、風上から漂ってくる獲物の位置がインプットされているように見受けられるし、
Fenrirが嗅覚を頼った時、何か集中して情報を集めようとすることは殆どなかったと記憶している。
彼の五感は超越的で、だからこうして神経を集中させなければ掴めぬほど微かな痕跡を探っているとなれば、それは耳を傾けるに値する話題なのだ。
そして、俺がその姿を目に留めるのを許していたということは…
きっと何か、進展があったのに違いない。
「どうかしたの?Freyaなら部屋にいると思うけど…」
当たり障りの無い会話を口では流しつつも、俺の中では、殆どそう確信していた。
見つけたとして、何を。
それは正直、検討もつかないところなのだけれど。
「何…ちょっと、尻尾を掴んでいただけさ…」
「え?誰の?」
「それは勿論、遥々お越しくださった、お前のご友人御一行のことさ。」
Fenrirが嗅いでいたのは、Tor達の臭いだったのか。
たった小一時間の滞在だったと思うけれど、丸一日経ってもまだ残っているものなのか。
そう感心していると、彼は皮肉っぽく笑って自分の言い回しの不適切さを詫びた。
「おっと、勘違いするな。尻尾と言っても、別に捕まえてやろうというのでは無い。ただ、あいつらの痕跡を探れば、少し見えて来るものがあるなと、思っただけだ。」
「…Torが、ボロを出して、何か残して行ったってこと?」
「うむ。まあ…消極的な手掛かりぐらいには、なった。」
「あいつらは言及こそしなかったが、お前が催した夏至祭は、ヘルヘイムをヴァナヘイムへ引き寄せる儀式の役割を、図らずとも果たしたと俺は考えている。」
「そしてもっと言うなら、神々の思し召しが、的を射ていないはずは無かろうと、考えているのだ。」
「詳しく聞かせて貰いたいけれど…」
ちらりと空を眺め、雲行きの様子を窺うような素振りを見せる。
言わずともこれくらいは伝わると分かっていた。
重要な進展があったのなら、盗聴の心配の無い方法で聞きたいな、と。
「ふむ。寝起きのお前にこんな話をするのは、少々酷なのかも知れんが…」
「まあ良い。俺の独り言だと思ってくれ。」
「少し喋りたい。そのうちに…頭が整理されて行くような気がする。」