261. 革の戒め 11
261. The Loejingr 11
「うぅっ…う゛う゛っ…」
生命維持装置に繋がれた、人造の獣のようだ。
彼には、感情が分からない。
「ぐるるるるるる…。」
ただ、目の端にいっぱいの涙を浮かべて。
雁字搦めに縛り上げられた口の端を僅かに開いて。
虚ろに呟くんだ。
「…かあさぁん…。」
「…とおさぁん…。」
「た…すけ…てぇ…。」
彼は期待した。二人が助けてくれることを、愚かにも、当然ながら期待したのだ。
理由は…必要だろうか。
「た…すけ…てよぉ…。」
必要だろうか?
「どお…し、て…? ねぇってばぁ…」
遂に大声で泣き出してしまった彼の目の前に、二人はいない。
いないはずなのに。
「お願い、ねぇってばぁ、…聞いてよぉ…。」
「うぁ゛っ…えぅっ…わあ゛あ゛あ゛あ゛ん…。」
それなのに泣きじゃくりながら、必死で叫んだ。
最後の力を振り絞って、優しい二人へ最後の一歩を踏み出す。
「僕は、二人がいないと……」
……!?
「…生きて行けない。」
「まずいっ…!!」
このままじゃ、彼が危ない…
「駄目だっ!!Fenrirっ!!」
俺は両手を突き出し、どうにかして彼の眼前の視界に入ろうと試みた。
「それ以上喋るなぁぁっ!!」
「Fenrirっ!!聞いてくれぇっ…!!」
「此処にっ!!此処にいるからっ!!」
「フェンリルウゥゥゥゥゥゥッッッ!!」
必死に叫んで、
鼻面を力の限りひっぱたいて、
その巨体が沼に引き込まれるのを、止めさせようとする。
「や゛め゛てくれえ゛え゛え゛え゛え゛ええっっっーーーーーー!!」
Fenrirは、過去と丸っきり、同じ轍を踏もうとしている。
自分でも分かっていないんだ。
そのシーンを、嘗て演じていた自分自身のことなんて、須らく忘れてしまって。
役者のあるべき姿なんだ、きっと。
身体に刻み込まれた悲劇にだけ、ただ従い。
何の淀みも無く、
それは気持ちよさそうに、
満面の笑みで、
台詞を吐いていく。
「おねがいぃっ!」
もう駄目だと悟って、絶望感に力が抜けた。
止まらない。俺には、どうすることも出来ない。
「…ころざなぃでぇっっ!!」
グジュッ…
それが罠の引き金であったかのように、鎖に刻まれた文字が青白く光りだす。
「っ!?ぎゃあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っっ!!!」
鎖から棘が生え、縛り上げていた獲物の全身に深々と喰い込んだ。
そいつは、抱き着いていた俺の頬を掠め、外套を裏からずたずたに引き裂いた。
出来ることなら、君の痛みを、一緒に感じられる友でありたかったよ。
Fenrirは、悲痛な絶叫を轟かせると、
あまりの痛みに耐えきれず、その場に無様に倒れこんだ。
どちゃぁっ…
擦れ違うようにして、人間など丸呑みにできる程に育った大口が地面へと伏せられる。
「たすけ…て…」
彼は未だ、夢の続きを見ようと藻掻いていた。
――――――――――――――――
「…思ったよりも、滞り無く終えられたな。」
「なに、これも父上が、予見された未来に過ぎない…」
気が付けば、俺達の周囲を来訪者たちが取り囲み、
事の顛末を見守る傍観者を止め、本来の目的通り、後始末に取り掛かろうとしていた。
足先で鎖の端を突き、Fenrirが抵抗の意を示さないことを確かめる。
その表情には、嘗ての使命を再び全う出来た安堵が滲み出ていた。
びく、びくと四肢を痙攣させ、惚けた笑みを浮かべたままのFenrirを呆然と眺める俺の肩に、
優しく手が乗せられる。
「あとは、我々に任せて頂けるかな。Teusよ。」
「其方の神としての役目は、確かに終えられたようだ。」
「……。」
侮蔑的な含みは無かった。
俺の役目なんて、もうとっくに終わっている。
それで良い。
俺は確かに、そう望んだのだから。
「初めから…」
「こうするつもりだったのか…?」
どうして、Loejingrが再び、動き出した?
今更、そんなことを尋ねるつもりは無い。
しかし、聞いておきたかった。
「それは、我々にも分からない。」
「……。」
全て、父上の望むままに?
「この方舟を、使っても構わないな?」
「こ、これから、どうなるんだ……?」
「フェン、リルは……?」
「此方へ、引き渡して貰おう。」
……!?
「ア…アースガルズへ連れて行くのか!?」
「言っただろう。父上は、この狼の力の漏出を懸念されておられる。」
肩にあった右手に縋ろうとすると、Torはそれを容易く撥ね退けた。
「こやつの力を封じることで、ヘルヘイムとの接合が途絶えるかどうか、見極めなくてはならない。」
「そ、そんなっ…」
「…だとしても、攫う必要なんて無いじゃないか?」
「何で、俺からFenrirを奪うような真似をするんだよ…?」
「今のお前に拘束を解除するだけの力があるとは思えないが、そのようにお達しだ。」
「Teus、言ったはずだ。我々は、この狼を罰するつもりは無い。」
「これの何処が、罰じゃないって!?」
「監禁の上で、様子を見守るだけだ。」
「最低でも、100年。…しかし場合によっては、そのまま幽閉の対象となると心得よ。」
「ふ、ふざけるなっ…!!そんな、そんなことが許される訳…!」
「お前が許そうが、許すまいが、関係の無いことだ!」
「…それが本当に狼を愛した主神のやることかっ!?老境に至って、狂ってしまったんじゃないのか!?」
「今のお前よりも、父上はお若い。」
「っ……。」
「Teus。お前はもう、人間だ。」
「それで良いと、父上も受け入れておられる。」
「だから…だから其方も、もう休みたまえよ。」
「私にとって、お前はどれだけ老いようと、英雄なのだ。」
「……。」
――――――――――――
Fenrirを繋ぐ鎖が金属箱の闇へと引き摺られ始める。
彼はあの時と全く同じように、ぐったりとした表情で、目の前の景色に微笑みかけていた。
「トー…ル…」
全てが滞りなく終えられ、背を向けようとした彼に、弱々しい声がかけられた。
「…何だ。狼の仔よ。」
「一つだけ…」
「一つ、だけ、教えて……くれ。」
きっと、最後に聞いておきたかったんだ。
あの時と、同じように。
「…良かろう、申して見よ。」
良いよ、もう。
もう、繰り返さなくても。
彼は、口元から牙を覗かせ、不敵に笑う。
「この鎖…紙屑で出来ているのか?」