261. 革の戒め
261. The Loejingr
「Odinが…」
アース神族の長が、直々に、
このヴェズーヴァへとやって来る。
「なっ…何だとっ…?」
それは余りにも唐突な伝令であったが、冷静になって話を聞いてみると、どうやらきちんと事の発端はこいつが原因であるらしかった。
「お祓いの相談をしたのは、確かに俺だけど…」
「何故そんな馬鹿な真似ができたっ!?」
「だって、このままじゃSkaたちが安心して暮らせないじゃないかぁ…!」
やはりこいつ、アースガルズに度々送っていた支援物資のリストの中に、しっかり心当たりがありやがった。
夏至祭から、かれこれ一週間が経とうとしているが、一向に霊圧の収まる気配が無いのを見かねて、あいつらに秘密裏に助力を求めていたらしい。
それに対して、何らかの返信が来る訳では無いのはいつものことで、気づけば例の物資箱に、望んだものが贈られている。
だから、何らかの魔力が込められた品々か、或いは参考になりそうな図書を紹介してくれるものだと、呑気に待ち構えていたらしい。
そして今朝、速達でこの手紙を受け取って封を切り、現在に至るという訳だ。
その筆跡を目にしただけで、血の気が引いたらしい。
俺も文書を確認したが、確かに本人のサインと共に、此方へ様子を視察させて貰う旨が記されていた。
ヴェズーヴァの地を、Odinが自ら踏み歩こうと言う。
彼が愛した息子の一人に、遥々遠方より、会いにやって来る。
それだけを聞いたならば、幾らか心は温まっても良い筈なのだ。
しかし、いつ来るかも知らせぬ辺り、大層な上から目線で気に喰わない。
その来賓が、今までとは比類にならない脅威であることを、遅れて駆けつけて来た仲間の狼たちに伝えるのは、簡単なことでは無かった。
俺達でさえ、何が起きようとしているのか、予測するのが難しかったからだ。
そう、本当に、何を考えているか、分からない。
主神が、自ら動くなど。
「と、とにかく俺がどうにか応対するから…な、何とかする…」
此処でいがみ合っても、何も始まらない。
唇を震わせ、視点も定まらないほどの狼狽ではあったが、彼は少しずつ、平静さを取り戻し、同時に襲い掛かる重圧を段々と理解し始めているらしかった。
もう、先ほどまでの老い耄れの眼では無い。
「洞穴にみんなを連れて逃げてくれ!彼らが去るまでは、絶対に戻ってこないで!」
「今すぐだっ!もうこっちに向ってるかもしれない!」
「俺も残る…」
「………!?」
「な、何言っているんだ?!」
「Fenrirは絶対にだめだ!!」
「それでもお前一人で、どうにかなる話では無いだろう。」
応対、と言っても、お茶を用意してようこそいらっしゃいましたと出迎えて済む話では無いんだろう?
万に一つも、お前の命が脅かされるようなことにはならないと思うが…
到底お前が、一国を護れるような王様には見えない。
とんでもない言いがかりをつけて来た時に、牙を剥いて追い返す番狼が必要だ。
安心しろ、余程お前の矜持を汚す様な振舞いをあいつらがして来ない限り、良い仔にしているさ。
それとも何だ、お前。
俺が怒り猛って、お前の大事な客人に、軽々しく手を出すとでも思ったのか?
「そ、そんなわけ、無いだろ…」
彼は引き攣った笑いを浮かべると、緩く首を振って汗ばんだ瞳を瞬いた。
「逆だ。」
「君の身が脅かされるかも知れないんだ。」
「Fenrirに対して、何て言ってくるか…」
「別に今更どのように蔑まれようと…」
「心の底では、仔狼のように怯えてるだろ?」
「嫌いだ、面と向かって、そう言われるのが、堪らなく怖い。」
「……。」
「君が辱められるようなことになるなら、俺が黙ってはいないから。」
「それだけは、絶対に約束する。」
「でもお願いだ。俺の尊厳が奪われるようなことが喩えあったとしても、お願いだから牙を剥くようなことはしないであげて?」
頬の毛皮を優しく掴み、お前はそんなお人好しの釘を刺す。
「あと、それからやっぱり、Ska達の身の安全は確保してあげるべきだ。Freyaと一緒に、洞穴にまでは、送って上げて欲しい。」
「彼らだけでも、巻き込みたくない。」
「出来れば、君も…だけど。」
「……。」
「良いだろう。」
「お前の意志に、従うとしよう。」
「うん、ありがとう。Fenrir。」
「あいつ、大泣きするぞ。」
「……。」
「お前は優しいから、いとも簡単に、そんなことが言える。」
「…しかし、お前と一緒にいられないことが、あいつにとってどれだけ不名誉なことか、一度考えた方が良い。」
「……。」
「済まなかったな。今のは忘れてくれ。俺の独り言だ。」
「彼らのことは、任せろ。洞穴の周囲の安全は、俺が保証する。」
「事情は適当に繕って、あいつに説明しておく。」
「……ごめん。」
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死ぬほどに長い数時間を、何をするでもなく、彼と二人きりで過ごす。
そんな気怠いひと時など、今までも数えきれない程に分かち合ったはずなのに。
互いに、一言も口を開けなかった。
Teusは一度、気分が悪いと言って席を外し、吐いた。
緊張に耐え兼ねた彼を見ているのは身を切られる程に辛かった。
俺もそれで動揺してしまうのではいけないと分かってはいるのだが、
衰弱し切った彼の肌色が、益々青褪めていくのを見て、自然と毛皮が逆立つ。
元気づける言葉さえも浮かんで来ない。
せめて身体を温めてやろうかと申し出ても、彼は震えて首を振るだけだ。
とても、神々を相手取る状況ではない。
そんなことは、お構いなしに、あいつらはやって来る。
いつ、訪れるのかを知らせぬのは、Teusの精神が摩耗し切った頃合いを見計らう、獣の狩りを思わせる狡猾さだ。
……。
街の空気が変わりつつある。
重く垂れこめた鉛空は、もう雨を降らそうとしない。
どうだろう。
待ち望んだ瞬間であるはずなのに。
それは今日であって欲しくない。
物憂げな眠気が頭を擡げる、気の狂いそうな昼下がりだった。
「……。」
変わらず耳を鈍らせる雑踏の中に、
実在の一歩が踏まれた。
「……来たぞ。」
「うん…」
その変化は、彼の耳にも、同時に捉えられたらしい。
大狼の襲来を待ち構える英雄のように、
広場の中央で立ち竦んでいたTeusは俯いていた面を上げる。
「……。」
その表情はまるで、
虐待を受けた仔が、両親に面会をさせられるような。
そんな喩えが浮かぶ程に、酷い怯えようだったのだ。




