259. この世界に在らず
259. Not of This World
それからの一週間は、思い返しても本当に奇妙な毎日だった。
不帰の客、とはよく言ったものだ。
確かに、自分が呼び寄せてしまったのかも知れないけれど。
まさかヴェズーヴァに居着いてしまうだなんて。
でも、帰ってくれ、なんて今更言えないし。
もしかしたら、元々ゆかりのある人たちが懐かしさを感じて居座っているのかも知れない。
少なくとも、出ていけ、などと不満を垂れて良い身分では無いのだ。
俺だって、居場所が無いから使わせて貰っているだけだし。
「…どうも。」
外出の折、ふと廊下から見渡せるリビングに視線をやると、脳裏に誰とも思い当たらない家族の団欒の絵が浮かぶ。
邪魔をして、すみません。
何も、しませんから。どうぞお気になさらず。
会釈などして、足早に玄関の冷たいノブを掴んだ。
―そう。彼らは、何もしない。
俺達を先客と表現するのなら、彼らは静かで落ち着きのある店内にずかずかと入り込んだ、大勢の来客のような騒がしさを纏っていた。
そこら中で、絶えず物音や、話声が聞こえる。
神経質にならなければ、聞き漏らすぐらいの大きさで。
きっかけが明白でなければ、この屋敷は憑りつかれてしまったのだと騒ぎ立て移住を検討しだすぐらいに、それは気のせいでは済ませて貰えない。
気力をすり減らさずに済んでいたのは、その営みに危害の靄の色を見いだせなかったことが大きいと思う。
彼らが俺達の存在を先客と見做していたかは分からないが、一応は客人の自覚があるらしい。
Freyaと寝室に籠っていても。こうして街中を散歩していても。
俺はヴァナヘイムで感じていたぐらいの、居心地の良い孤独を感じていた。
そう、彼らは喧噪を齎したのだ。
それは都会的で、全くの干渉を伴わない。
言わば完全な並行世界として、この土地での休暇を楽しんでいるように思えた。
逆だったなら、良かったのに。俺はそう羨ましがる。
彼らのように、この寂れた大通りの中央を闊歩する主人公を眺める路傍の影になりたい。
前も言ったが、俺は路地裏の先に気を取られ、思わず足を止めて覗き込んでしまうような散歩が好きだ。
誰にも気づかれることなく、その隙間に入り込んで、軽はずみに姿を消してしまいたい。
今は彼らの居場所が、そこであるようだから、俺はこうして、熱の無い陽の当たる壇上を歩くことしか許されない。
あなた方は、そちら側にいながら、この街の活気を保っていると言うのに。
そんな逆転した構図を、静かに見守られるものだから。
俺はやっぱり、王様と揶揄されるに相応しいのかも知れない。
「おはよう…Ska。」
“うっふ…”
しかしそれが、狼たちにとっては頗る居心地の悪いことであるようで、
俺はFenrirを通して彼らから多くの苦情を寄せ頂いている。
“くあぁぁ…”
「大丈夫?ちょっと眠たそうだけど…」
“いいえ、そんなことないです。ご心配をおかけしてすみません。”
「……。」
それだけが許せない。
どうやら、彼ら。
狼たちには、ちょっかいを出すらしいのだ。
彼らは俺が近くを歩くだけでも、此方に少なくとも耳を向けて反応を示すし、顔を上げて一瞥したりなどするから、本能的に備わった警戒心がそうさせるのだろう。
それが四六時中はたらくとなれば、幾ら危害を及ぼさないと知っていても、気が気でないというのは想像に難くない。
彼らは、言わば路地裏の野良犬のような経験をさせられているのだ。
もっと酷い喩えが気に障らないのなら、或いは動物園
何もして来ないと分かってはいるけれど、どうも視線が気になって、心が休まらない。
ヴァナヘイムで絶えず人間たちと交流を図って来たSkaでさえ、その居心地の悪さを拭い去ることが出来ずにいたのだ。
“Teus様、悪い人たちじゃないのは、伝わって来るんです。”
“ですが、どうして僕らの気を引こうとするのか…”
きっと、会えて嬉しいんだと思うよ。
君たちの霊体に対する感度が、俺に比べてずば抜けて高いことは、ある種自明の理として受け入れているけど。
自分の存在を認めてくれたと感じたら、そちらに擦り寄ってしまいたくなる。
そんな欲求が伺えるから。
逆に俺に何もして来ないのは、俺が最も彼らと近しい存在であるにも拘わらず、どうやら縁もゆかりも無い他人だから、がっかりしているんじゃないかなと、勝手に解釈している。
死人に口なしという言葉が、これ程口惜しいと思ったことは無いよ。
“…でも、その中に、貴方が逢いたがった相手はいない、そうなんですね?”
「……。」
「どうにかするから。もうちょっとだけ、我慢して…」
一応、助けてくれないかって、頼んではいるんだ。
便りが全くと言って無いのが気がかりだけど、もうすぐ何とかして貰えるよ。
“別に良いんです。Fenrirさんも到頭折れて下さって、夜だけはヴァン川の向こうで眠ることを許して貰えたので。”
…そう、それであいつ、今日はいないんだ。
群れの見張りを夜通しさせてしまっているんだね。
来春までは、出来ることなら彼らを招き入れたくないと言っていたから、それは苦渋の決断だったに違いない。
これはいよいよ、まずいことになってきたな。
自分の手元から皆がいなくなってしまう寂しさよりも、申し訳ない気持ちが勝った。
「…皆を、読んで来て貰っても?」
「すぐ、用意するから。」
“承知いたしました、Teus様。”
ずるいなあ。
今の俺に出来ることと言えば、底なしの懐から無尽蔵に溢れ出る食料を振り翳して、
皆の胃袋を此方の世界に引き留めることしか出来ない。
「…それじゃあ、お昼前に、戻っておいで。」
“はーい!!”
「……。」
家路につく途中、俺は充足感にようやく思い当たる理由を見出していた。
薄っすらと予感できる、漠然とした将来だ。
俺は、この土地で死ぬ。
段々と、今この日陰を歩く人々との境界を失い、
俺も彼らのうちの一人へと埋没するのだ。
この半身が、老いた片方へと近づくように。
そうなった時が、俺自身の最期であり、
初めてGarmの膝元へと至る切符を手にすることになるだろう。
息を引き取る際、何の実感も無いだろう。
何も気づかず、今までと同じように生活しているつもりで、ある日突然彼らと同じように、帰るのだ。
そう思うと、暫しの暇を愉しんでいる彼らの帰りを急かすのは無粋であると、幾らか寛大になれる。
「……?」
庭先へ戻ると、何故か玄関が開いていた。
困ったなあ。勝手に出入りするのは良いにしても、せめて戸締りはきちんとして貰わないと。
不用心でいられるほど、生憎良い身分では無いのだから。
しかしこの今にも地に伏せそうな郵便受けは、元から開け放たれていただろうか。