257. 逢魔の刻
257. Fateful Hour
俺の聴覚によって形成された脳内の視界に、もうSiriusの姿は無かった。
これは最早、あの身体から繰り出される四肢のリズムではない。
雑音が、混じっている。
いいや、逆だ。Siriusの方が、音が小さい。
たった今、主格は逆転したのだとはっきりした。
そいつは到頭、分離する。
宿主の素晴らしい走りから遊離し、自らの走りを刻む。
「ああっ……ああっ……!!」
途端に、それまで俺の耳に心地よく響いていた走りは、大きく減速する。
しかしSiriusは、それでも持てる限りの力を尽くして、走り続けていた。
息が切れるまで、自らを試すつもりだろうか。
それともお前も、追っているのか?
目の前をすり抜けて行ったあいつの姿を?
気が付けば、その遥か先を行く、もう一匹の影。
俺が追うべき標的は、そちらである気がしていた。
いけない。
Siriusの正気と無事を確かめるのが、先決であろうが。
彼は今、気持ちよく全力で夜空を駆けているのかも知れないが。
その身を案じて、此処まで姑息に付け狙って来たのでは無いのか。
それなのに。
身体は本能的に、追いかけっこをしたがったのだ。
「済まない、Sirius…!」
必ず、迎えに行くから。
この狼より先に、一歩で良いから先にいたいのだ。
「ぜぇっ…ぜぇっ…ぐっ…」
「う゛ぅっ…うぁぁっ…!!」
胃袋の中でご馳走が暴れて、今にも口から絞り出されそうだ。
夢の中でも、こんなに身体が重たかったことなんてない。
いつだって本気で挑めるなら、苦労はしないのだ。
俺はやはり、狼の風上にも置けぬ、怠惰であったことよ。
言うなれば、然るべき儀式に、正装を纏えぬような、
闘いに挑まんとする戦線の前で、丸腰であるような、
そんな惨めさを覚えていた。
別に、万全であって尚、敗れるのだろうけれど。
貴方の前でぐらいは、完璧でありたかったのです。
その内、二流の自分に慣れるのですかね。
ゆっくり、確実に。
それを、窘めようと言うのですか。
しかし、やっと訪れた平穏なのです。
これ以上ないくらい、幸せなんだ。
どうしても、許されないことでしょうか。
せめて、あいつが笑ってこの世を去るまででも。
喧嘩の傷口も癒えてから、全力で走ることを久しくしていない身体に鞭を撃ち、
どうにかして走り続ける術を思い出した俺は、なんとかヴァン川と洞穴を結ぶ獣道へと合流する。
Siriusは、追い越せた。
後方で、息を切らしながら、一生懸命に走っている。
しかし標的の尻尾は、
ぎりぎりのところで視界に捉えきれていない。
だが、確かに見えた。
あの毛皮のから棚引く、光。
“あっ……!!”
満月に照らされた、蒼い狼の毛皮の先端が……
“あと、二つ…!!”
死ぬ気でそのカーブ、突っ込むしかない。
脚の記憶だけが頼りだ。
幾重にも重なって迸るフラッシュ・バック
“グルルルルゥゥゥゥッ……!!”
右後膝の古傷が疼く。
“ウガァァァァァァァッッッーーーーー!!”
ああ、消えそうだ。
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呼吸も忘れる程の全力疾走の果てに転がり込んだ、到達地点。
「う゛う゛っ…う゛、うぐぅっ…!!」
冷やりと毛皮を撫でる風に、
吸い込む空気の震えに、
喘ぎ吐いた息の青白さに、
「ぐぅぅっ……ぜへぇっ…あがっ…!!」
俺は狼の季節の到来を感じた。
「あ゛ぁっ…あ、あっ…はぁっ…!!」
その洞穴を塞ぐ、瓦礫の山の頂上。
貴方は、悠々と尾を戦がせる。
「……今度は、一歩。」
「我が速かったようだな。」
悪戯っぽく笑って、私を見降ろすのだ。