256. 大神隠し 3
256. Spirited Companion 3
初めは、何の気なしにスピードを上げてしまいたくなるような、赴きある獣道に差し掛かったのだと思った。
たった一匹で暗闇の中を颯爽と駆けてしまえる、そんな高揚感が、彼をより一層俊敏な狼へ変貌させたのに違いない、と。
それはどんな道だろうか、追走の形を取れないことが悔やまれる。
しかしお前の通っているその獣道は、俺が長年歩き続けて来たそれだ。
何処を走っているかは、手に取るように分かる。
彼はもうすぐ目的地へ到着することへの気の緩みで、体力の余裕の許す限りで出力を上げたのだ。
長くなだらかに続く丘を登り切った先、終着点はもう目と鼻の先にある。
ああ、覚えているとも。ありありと思い出される。
お前が初めて、自分一匹の力で俺の元へやって来た時と同じだ。
目の前に聳える大樹に示された目印に気が付くまで、きっと、不安で胸が押し潰されてしまいそうだっただろう。
呼吸を落ち着け、衣服の乱れを整えるのに必要な時間を取る為、Teusが自らの姿を人間へと戻す場所はまだ先だが。あいつの心理も、今思えば似たようなものだったのかも知れないな。
あとちょっとで、俺に逢えるからと。お前はそこから更に加速するのだな。
居住まいを正し、高鳴る胸を抑えて、彼の到着を待ち構えたあの時に思いを馳せる。
どれ、歩調を合わせてやるとするか。そんな風に己惚れ。
トロットから小走りへとリズムを切り替えた直後だった。
「……?」
その加速の行き着く先でさえも、俺が想像できる範囲内ではあった。
初動は若々しく潔い、息が切れぬ限り、そのまま走り続けてやろうという気概に溢れていた。
気持ちは甚くわかる。こんな満月の夜は、己の狼の資質を試してみたくなるものだ。
もう、この走りを持続できそうにない。
そう脳裏にちらつく死に物狂いに中に勇気を見つけ、あと数秒だけでも藻掻いて見せる。
その勇気が消えかける度に、俺は同じ決断を繰り返せるのではないか。
死なせてくださいと首筋に牙を突き立てながらに、必死に生き続けようとする、忌々しい生存本能を持ち合わせておきながら、こんな時にだけ息を潜めているとは、なんと図々しいことか。
さあ、俺は出来る筈だ。まだ走れる。血反吐を吐いてでも、その脚を止めるな。
そんな風にして、自分を駆り立ててみても、結局のところ俺は怠惰で。
いつもより、ほんの少し遠くまで進んだところで、よろけて立ち止まってしまうのだ。
しかしどうだろう。
この狼の素養は、果たしてどれだけ持つと考えれば良いだろうか。
確かに、速い。
持続力も、申し分ないな。
誇張無く、Skaに匹敵するだろう。
しかし、元来長距離走による消耗戦を相手に要求する狼のトップスピードは、そんなに高いものではない。
スピードは、此処一番で仕留める際の切れ味が鋭いものとしてしか、評価されない。
このレベル帯に控える狼は、実践に投入される狩りのメンバーの間で、大差が無いことが最近の観察で分かっている。
それで話は片付く。
この仔に対する特別な感情を、心を殺して抜き去ってしまえば。
それは何の違和感も俺に直感として齎さなかった筈なのだ。
だが、何かがおかしい。
俺の直観に、その分析は媚びてこない。
「これは…」
「最高速じゃない…?」
狩りの相手が誰であろうと、力量を見誤ることは無い。
見抜いている。
お前が振り絞る限界が超えてくれる伸び代でさえも。
それが仲間の狼であろうと。
気心の知れた、お前であろうと。
「まさか…」
「まだ、上げられるのか…?」
普通の狼が出して良いスピードではない。
狩られる側として、尋常ならざる死力を尽くしているのだとしても。
限界へと漸近する上がり方では無い。
ガクンと、一段上がったのを、確かに耳が捉えた。
更に、そこから加速する。
「……。」
来た、と思った。
残念なことではあるが、これこそが追跡していた俺にとって待ち構えていた瞬間であったのだ。
「遂に尻尾を出したのだな。」
冷静にそう判断すると、短く息を吐いて、先までの彼への熱い思いを胸の中に押し込める。
Siriusはこんなに気分の良い夜の森を、一匹で、誰の眼にもとまらぬ全力で駆け抜けることを望まれている。
自覚なく、
操られている。
それが俺たちの前提だ。
彼の四肢に垂らされた糸は、神の意志よりも巨視的な意味で、運命だけであったはずだ。
それがいつ、あいつらの恣意的な枷に置き換えられてしまったのだろうか。
たった今、こいつを走らせている ‘そいつ’ は、下種野郎だ。
遣いを扱き使い、それ以上のはたらきを強いている。
不自然さ、それはヴェズーヴァの上空を相変わらず舞い続ける鴉であったり、
Teusの言葉の端々にだって現れる。
もしSiriusが、俺の目測をぎりぎり見誤らない速度で走ることに終始してくれていたなら、どれほど良かったことか。
このままでは歩調が、合わない。
もう、足音に気を遣い、影のように追随することも儘ならない。
相手とて、耳が風切る音で、掻き消されてしまうほどの疾走と見える。
このままのんびり走っていると、離されてしまいそうだ…
勿論、本気で言っているのではない。流石にそれは無いのは承知で、彼を褒め称えている。
胃袋にもやもやとした不快感が残るぐらいに腹を揺らして走るのが億劫なだけ。
だが、それもちょっとばかり我慢して、追わねばならぬ立場になりつつあるようなのだ。
ああ、Teusに促されるままに、鱈腹詰め込むのでは無かった。
祭りの準備に散々扱き使われたので、その埋め合わせだと思って、ついつい食べ過ぎてしまった、ぞ…
バシンッ…
“フシュッ…!!”
……?
何だ、今の。
自分に言い聞かせるような、スパートの合図は?
「ま、待て…!」
タタタタンッ…タタンッ、タンッ…
「い、幾ら何でも…」
タタタタンッッ……ダダンッ…
「…上げすぎ、では無いか?」
ダダダダッ…ダダッ…ダダダダッ……
速い。余りにも速い。
そんな速度で、走り慣れぬ地形を駆けて良いのか?
目の前が明るい日中ならばいざ知らず。
四感で補わねばならぬ程に、暗闇で得られる視界は狼と言えど限られている。
…それとも誰かが、行けると教えてくれているのか?
「まずいことになった…!」
気分の晴れる、ナイトランはもう終わりにしなくてはならないらしい。
もう、形振り構っていられない。
到頭俺は、彼を標的として、追跡することに決めた。
「このままでは、手遅れになるぞ…!」
明らかに、狼の限界を超えている。
あんなスピードを体現させられて、若い身体とて数秒も持つはずが無い。
狩人としての寿命を著しく縮め、下手をすれば命に関わる。
止めさせなくては。
今すぐに、彼に近づかなくてはならない。
直ちに射程圏内に収め、それから視界にSiriusを捉えなくては。
でないと、本気で彼が危ない。
「くそっ、どうして自分の縄張りで後手後手に回るっ…!」
いつもの獣道を外れて追跡を試みたことが、俺に若干の不利益を与えているようだ。
思うように加速が決まらない辺り、腹いっぱいになったらぐっすり眠るような怠惰を身体が覚えてしまっている。
ヨルムンガンドが齎した若干の地殻変動による地形の修正も、この辺りは完了していないのも向かい風だ。
肉球が、いつもよりも激しく地面にぶつかる。転ぶことが無いようにと、足元に注意が削がれていく。
「ハァッ…ハァッ…アァッ…!!」
その間にも、彼はぐんぐんと力強い加速を続けるのだ。
「嘘だ、ろ…?」
「これ以上は…!?」
パチンッ…
……!?
そして、更なる高みへと。
必死で追いかけるこの感覚、前にも味わったことがある。
悪夢の中ででは、無い。
これは…この走りは…
「う…あ、あ……!?」
何かが俺の頭の中で、弾けるような音がして。
その感覚は、現実のものとなった。
気付けば、周囲からSiriusの足音は消え去り、俺は標的の存在を見失ってしまう。
従順な替え玉。
彼が腹のうちに溜め込んだ、囮の足音は潰え。
「……。」
そいつは、姿を現したのだ。