256. 大神隠し 2
256. Spirited Companion 2
「いつからそんな徘徊癖があったのだ…?」
いいや、初めからそうだったな。
お前は父親の居場所を突き止める為なら、夜中に一匹で根城を抜け出し、俺の元へと走り出すような狼であった。
冒険心に満ちたお前は、もしその脚に不自由さを感じていなかったなら、成狼した暁には、ひょっとすると新天地を求めて、群れを離れてしまうのではないか、そう考えたことがある。
本人にその意志を尋ねたことは無い。
ただ、もし彼が、神々の気まぐれな犠牲とならずに済んでくれていたとしても。
あの狼は、いずれきっと、違うどこかで、その大きな勇気を示してくれていたのだと思っている。
ヴェズーヴァの群れの跡継ぎは、別の兄弟たちが成し遂げるであろう。
そして己の身を気にかけてくれる沢山の仲間たちが、自信を持って送り出そうと言ってくれたなら。
彼は未練を断ち切り、自らの群れを求めるような気がしていたのだ。
だからそう、俺が彼に対してやったことと言うのは、
やはりある種の『拘束』である、そんな風に思っている。
Siriusをこの地に縛り付けるようなことをした、そう言うつもりは微塵も無いが。
群れの皆には、ヴァン川の対岸の森へは立ち入らぬよう、Skaの方から厳重に注意をさせている。
無論、まだ若いとは言え、聞き分けの無い仔狼でもあるまい。
それなのにお前は、群れを抜け出して、夜風に毛皮を晒されてみたくなってしまうのだな。
確かに夜中に突然目が醒めて、何処と目的も無く彷徨ってみたくなる、そんな日が偶にあっても良い。
日中のまともな頭では進まぬような考え事が、捗るだろう。
とりわけ、生死だとか、狼と人だとか、両極端に偏らずにはいられぬ悩みを、躊躇いなく、のめり込める。
堂々巡りも、良いものだ。
こればかりは、俺にも留めることが叶わぬ。
しかし今宵のお前は、他の狼たちの眼を盗み、’ある場所’ へ向かおうとしているように見受けられるな。
今宵は一段と冷たい風が川辺から流れ込んで来る。
先手後手のコイントスは決まった。
此方が風上、つまり慎重に立ち回りを要求される立場らしい。
“そろそろ、始めるとしようか…”
流石にこれだけ距離を置いて走り出せば、問題ないだろう。
一匹の狼として見くびることなく、見積もったつもりだ。
彼は俺の普段の獣道を使っているようだから、此方はやや川下から遅れて並走する形になる。
風が運ぶ追っ手の臭いは、あいつに届かない。
足音にも細心の注意を払わねばならないが、それに関しては、スピードにおいて圧倒的に此方に利がある。
あいつのランニングペースに対して此方はトロットで散策を楽しめば良い。
満腹に詰め込んだせいで、少々腹が重たいが、
まあ、Siriusの追跡ぐらいなら問題にはならないだろう。
Teusが背中に乗っていても、余裕で口を危うく開くところだ。
しっかりと小枝を踏み折らぬ慎重さを伴って、一定の距離を保って進めば良い。
ザッザッ…ザッ…ザザザッ…
枯れ葉を踏みしだく音だけが続く中、俺達は月明かりだけを頼りに、死の残り香漂う森の中を駆けて行った。
残念なことに、俺はあいつと歩調が合わない。
彼の足音に自分のそれを被せることで、完全にSiriusの影となることは、残念ながら不可能に近いのだ。
こうして距離を取ることで、僅かなノイズを誤魔化すしかない。
前にも少し語ったかも知れないが、俺とSiriusの走りは、殆ど対極に坐していると言っても良いほど異なる。
自分の走りは、一貫して地面の上を滑るようにして進むそれだ。
常に地形に対して最善の接地を選び続け、減速の余地を出来る限り省くことで、小さな力でトップスピードを維持しようとする理念がある。
その再現性の高さが、俺の長距離走における強みだ。
それに対して、彼の出力方向は、垂直。
最も負担を小さくしたい右後ろ脚の接地時間を短くすることを念頭に、飛ぶようにして進むのが特徴だ。
その撓る若枝のようなうねりが繰り出す、恐るべき滞空時間は、彼が有する筋肉量で初めて実現する。
それは出力と出力の間に許される休息の時間が長いことを意味する。
狩りに於ける切り返しの反応を度外視すれば、長距離を走るのに、これほど適した走法は無い。
全く持って、理論上はそれで良い。通ずるものは同じなのだ。
走り続ける身体に対して、出来る限り自ら減速の接地をしないように心がける。
その意味で、俺達が目指すべき走りは共通している。
だから気分だけは、隣で一緒になって、並走しているつもりだ。
Siriusと一緒に狩りが出来る日も、そう遠くは無いかも知れない。そう思うと、俺はTeusにこの群れへと引き入れて貰えて、本当に良かったと感謝をするべきだ。
狩場はヴェズーヴァの北上、俺にとっては新天地での腕前を試されることになるが、きっと今度は主戦力の若狼たちの矜持を傷つけること無く、きっと狩りの成功に貢献して見せる。
懐かしいな、俺が初めてSkaに狩りの助手を依頼した時のことを思い出す。
あの時は、あいつが誇り高き番狼の長であることも知らなかったのだ。酷く拗ねてしまった彼をどう扱って良いものかと、生きた心地がしなかったな。
そんなことを考えて、初めて俺は、Siriusに追跡を勘付かれてはならないのだと悟ることになる。
冒険譚は、彼一匹によってのみ、語られなければならない。
保護者が常に監視できるようなお遣いでは、何の面白味も無いのだ。
もしあいつに機嫌を損ねられようものなら、俺は激しく糾弾されるどころでは済まないぞ。
それでも最終的には、彼の目の前に、自分の姿を現さなくてはならないような気がしている。
Siriusは、追っ手の存在にいつ気が付くだろうか?
本当に彼が、何も深い目的を伴わず、冒険に満足したならば、すぐに此方へと戻って来てくれるのなら、俺も何も知らぬふりをして、コッコが燃え尽きるのを眺めて眠っていたことにすれば良い。
しかし、もし俺の見立てが正しければ。
彼には明確な一つの目的があって、足繁く其処へと通うことをしている。
俺も、臨場を誘われているようだ。
“……?”
彼は本性に従い、到頭大きく踏み込んで、動き出す。
それは完全に頃合いを見計らった、唐突なギア・チェンジだった。
「何だ、この加速は…?」