225. 夢のよじれ
225. Dream Twist
何だろう。
この、不安の無い迷いは何だ?
覚えがある。
大狼の支配する、鉄の森へと足を踏み入れた時だ。
此処は、俺を誘い入れた、狼の縄張りだ。
俺に確かな直感を齎した、あの導き。
それに縋って、見覚えのある街並みを離れ。
俺が最後に辿り着いたのは、ヴェズーヴァの果てであった。
しかし、その果てとは、
ヴァン川を睨む西部とは対極。
ヴェズーヴァの縫い目。
ヴァン族の長によって傷つけられた、あの縫い目だ。
「……。」
ヴァナヘイムとの、嘗ての接合点。
見渡してみても、そこに集会場が設けられていたことは、俄かには信じ難いことだ。
目の前の石畳は途中で途絶え、立ち並んでいた民家の面影も、崩れ去ってしまっている。
だが、今宵の領界は、それ以上の ’揺らぎ’ を見せていたのだ。
俺でも目を覆いたくなるような異変が、空を覆い尽くしている。
「月が…」
おかしい。
何故、ヴァナヘイムに背を向けなくては、不気味に一際大きく映る満月を拝めない?
あれならば、コッコの背後からでも、威圧的な魔力を放って狼の視線を釘付けにしていたはずだ。
昔、方角の概念が、理解できなかった頃の、脳の雲りを思い出した。
地平にへばりついた方角が、夜空の星々を指示した途端に、曖昧な何処かを指すようになる。
それが、気持ち悪くて、仕方が無くって。
今になって、俺はそいつが正しくその顔を此方に向けている気がしなかった。
そうなると、
目の前のこれは本当に、’ヴァナヘイム’ であるだろうか?
「無くなって、いる…?」
それは、あの冬に目の当たりにした、全くの自覚を伴わぬ奇跡を彷彿とさせた。
目の前の景色は、少なくとも、俺が最後に振り返った、ヴァナヘイムの城壁とは、似て非なるものだったのだ。
何も、見えない、と言うのが、最も似つかわしい。
ぼんやりとした、濃霧のようなものが、立ちはだかっているとしか言えない。
「縫い目が…」
「動いている…?」
それもまた、何処かで見覚えがあった。
二つ、思い当たる景色があった。
幻かに思えたけれど。
それは猛吹雪の中で僅かに揺らめく灯籠の明かりが立ち並ぶ、ヴァナヘイムの城門だ。
Skaの助力によって、ヴェズーヴァからの帰還を果たした。
今、目の前に在るべき景色を、冬へと駒を進めた形。
しかし、もう一つは。
俺の眼には、此方の方が、相応しいと思えている。
これは、Fenrirと共に飛び込んでしまった、あの濃霧だ。
俺が、狼の視覚を得た、招かれざる縄張り。
あれが、彼女の遠征の裾であるより、寧ろ招待であると、
今ならばそんな風に子供心を読み取って上げられそうだろうか?
いずれにせよ、ヴェズーヴァの領界は、二つだけであった筈だ。
一つは、ヴァナヘイムとヴェズーヴァを引き裂いた、ルインフィールド兄弟の奇跡。
もう一つが、ヴァン川だ。
Fenrirの縄張りが、この土地へと地続きになるようにと願って引いた架け橋。
しかし、傷口が、増えたのだ。
彼女とのひと時を特別なものにしようなどと、軽はずみな儀式が禍いしたのなら、俺は実に愚かな王様と言ったところだ。
三つ目の交叉路。
ヴァナヘイムへと、あと一歩まで届いた、オ嬢の膝元。
それを、死力を尽くして退けた筈じゃなかったのか。
しかし俺達が今、歩いている世界が、
嘗てのヴェズーヴァの住民たちと交差していると考えるなら。
夏至祭が、そんな奇跡を僅かであっても、手繰り寄せることをしたのなら。
「……。」
その淵に、Freyaはいた。
嘗ての彼女の一人部屋にあった古椅子に腰かけ、
目の前に立ちはだかる、前兆の壁を見上げていた。
「…良かった。」
そこにいたんだ。
俺は、目の前の出来事が、何も理解できていないという風に、そんな戯言を宣った。
俺の脳裏にはちらとだけ、一瞬だけ、君が再びLokiの悪戯に弄ばれる悪夢がちらついたよ。
吸い込まれるようにして落ちた、追放呪文の穴の淵に、君が立つ筈が無いね。
驚恐の目覚めに寝付けず。
どうやら俺達は、知らぬ間に同じように彷徨っていたみたいだ。
「…Freya?」
一人で、此処まで歩いてきたの?
「誰と、話をしていたの?」
「Freya…?」
「……。」
「S-a dus pe acolo.」
兄弟暗号によるその一言で、全身が強張る。
そのすべてが、理解できた訳では無かった。
しかし俺は、大きく目を見開くと、
咄嗟に胸元に抱えていた笛を掴んだのだった。




