220. 墓前 3
220. Visit his Drownyard 3
別に、特別なことは何もない。
只々、Fenrirに日課に付き添っているだけ。
彼は表情を少しも怯ませず、口に咥えていた牡鹿の亡骸を、
眠っている仔狼を起こさぬようにして洞穴の前に横たえた。
そして、瓦礫に閉ざされた別世界をじっと見つめ、
礼儀正しく視線を逸らして、終わりだった。
もしかするとその間には、
狼の言葉で、彼に話しかけるような、霊前の交流が行われていたのかもしれないが。
勝手な自分の想像では、
彼はSiriusとの間の会話を、人間の言葉によって成立させていたのではないかと考えている。
きっとSiriusは、人間の言葉を操って、
Fenrirを安心させてくれていたと思うから。
彼はそれに応えるようにして、狩りの戦果を携えて洞穴に潜り込むのだ。
二人きりで、洞穴の前で過ごすのはいつぶりだろう。
偶には良い、そういうとSkaはいじけてしまうかも知れないけれど。
全く、いがみ合う調子で続く会話を前置きとしないと、
Fenrirも打ち明けたい言葉が吐き出せないんだ。
「お前の言う通りかも知れぬ…」
彼は身体をだらりと横たえ、四肢を天に向けて寝そべっている。
なんともリラックスした寝相は、決して人前で見せようとはしない。
酷暑のヴェズーヴァでさえ、彼は喘ぎも蕩けもしなかった。
それが今、こうして、腹の毛皮を曝け出してしまっていると言うのは、素直に驚きを隠せなくて。
俺は初めて、彼が大狼の前で甘えているのを目の当たりにしているのかも知れないと思ったのだ。
「懐かしい…」
「…そりゃあ、君にとっては、当然だろうさ。」
虚ろな瞳の端から、大粒の涙が零れ落ちるのを見てしまった俺は、出来るだけ冷徹を装って笑う。
彼は今、吐き気に似たようなものを覚えている。
もうそこまで迫り上がってきているのを感じていて。
あと少しでも、気を許してしまえば、忽ち塞き止められなくなると予感している。
ほんの小さなきっかけにも遭遇することの無いよう、
必死になって、悪い記憶をかき集めようと躍起だ。
「此処は、君の家なんだから…」
彼が一匹で洞穴へ戻ることを恐れていたのは、そのためだ。
二人で歩き始めてからずっと、既のところで堪えているのは、知っている。
わんわんと泣きじゃくる君を、隣でどうすることも出来ずに見守るのが、
傍らにいる自分の役目だと思っていたから。
「ああ…」
それすら出来ないようでは。
尋ねずにはいられないんだ。
「ああ、そうだったな…」
Fenrir。俺は本当に、此処に来てよかったのかい…?
「そうだった…」
「ちょっと、周りを歩いて来る…」
到頭堪え切れなくなってしまった俺は、徐にそう弁明して立ち上がった。
次にFenrirが何か言葉を発しようものなら、俺が沈黙を破ってしまいそうだったから。
君より先に、泣き喚くのだけは我慢だ。
思い出しちゃいけない。
Fenrirが、俺を追放すると宣言した時に、送ってくれたありがとうなんて。
想像してはならない。
彼が洞穴の崩落と共に、自害の道を選んだ最期なんて。
瓦礫の階段を覚束ない足取りで登り、
ぼんやりとヴァン族の長としてすべき振舞いなんかを、今更になって何かと考える。
「ふぅ……」
本来の入り口を塞ぐ扉となった岩盤までは自力で辿り着きたかったのだが、
どうやらご老体に鞭を撃つべきでは無かったらしい。
次に外出するときは、杖を持ってくるようにしよう。
Skaに身体を支えて貰わないとまともに動けないのか、なんてお叱りが飛んできそうだ。
湧き上がってくるような、人格の芽生えは無かった。
それは当然のことだ。俺とあの兄弟の間では、何も命のやり取りを行ってなどいない。
狼たちの間に脈々と受け継がれるような奇跡は、残念なことに起こりえないのだ。
だから彼が、俺に何を期待してくれているのか。それを推し量りかねていた。
俺に、あの方の代弁ができるだろうか。
何気なく開かれた口から紡がれる言葉が、
意図せずともゴルトさんがSiriusへ語り掛けるようなそれに、聞こえてくれやしないか、と。
それでFenrirが、感涙するようであれば。
それはそれで俺の意志に反していることにはなるけれど。
俺を誘ってくれた意味にはなってくれると思うのだ。
「……。」
或いは、行動だ。
俺のこれからの選択が、ゴルトさんの意志に沿ったものに、なってくれるだろうか。
それだけは、絶えず心に問いかけることを怠りたくない。
外套の裾から覗く爪先に視線を落とし、そんなことを思う。
何だろう。
Fenrirが、言って欲しい言葉。
君に注いであげたい愛情。
俺、自信なくなってきちゃったな。
一つだけ、あったような気がしていたのだけれど。
「…ただいま、帰ったぞ。」
「…ああ、Sirius。」
「……。」
もう、忘れてしまったようだよ。