220. 墓前
220. Visit his Drownyard
「おい…大丈夫か?」
「う゛ぅ…だ…だ、いじょ…ぶ…」
Fenrirの背中に乗るのがこんなに難しくなってしまっているとは思わなかった。
今までは、彼の鼻先の平らな場所に右脚を乗せて踏ん張れば、後は彼が自動的に宙に放り投げ、
良い感じに着地できるように調整してくれていたのだが。
衰えた半体は、想像以上に体幹を保つ力を失っていた。
初めて宙に持ち上げられた時みたいに、回転に捻りが加わって着地点が見えず、
毛皮の上に胸から飛び込んで息を詰まらせてしまったのだ。
老いた左手脚に備え付けられた装備も、結局は日常生活の補助に過ぎない。
左右の均衡は、決して順方向にしか取り戻されないのであると、否応なしに自覚させられる。
「ちょっと、脚を滑らせただけだよ…」
「頼むぞ、全く…」
腰を摩って、致命傷になっていないかを恐る恐る確かめると、首元の毛皮の手前まで這って進み、定位置で跨った。
「良いよ、準備できた。」
「では、出掛けて来る…留守は任せたぞ。」
「じゃあね、良い仔にしてるんだよー?」
“はーい、行ってらっしゃいませ!”
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「…今までみたいに、俺を幾ら投げ飛ばしても壊れない玩具みたいに扱うんじゃないよ、だったか?」
彼が窘めるような口調で、そのように文句を垂れるのも、今回ばかりは致し方が無い。
「冗談めかして話すから、危うく真に受けるところであったぞ。」
「うう…面目ない…」
しっかり毛皮を掴んで張り付いているつもりなのだが、自分でも驚く程踏ん張りが聞かなくて、
既に4回ほど、ちょっとした段差で浮いてしまった身体を持ち直せず、落馬ならぬ落狼しかけている。
重心が高いまま、気ままに傾かれては、速度を保てぬ。
まだ眠ってしまって、動かず横なってくれた方がましだ、なんてお叱りを受ける始末で。
俺は腹ばいになったまま、のんびりとトロットで闊歩する狼のリズムを全身で感じていたのだった。
「ありがとう…まさか、本当に連れて行ってくれるなんて。」
こうしていると、周囲の景色は殆ど視界に入ってこないので、
自分なりに多少見慣れた獣道さえ、
戦禍とその傷跡を確かめることができない。
「…約束は、約束だからな。」
自身を転送の対象とできないので、背中に乗せてもらうより他、無かったのだ。
「予てより、済ませておきたい私用ではあった。それに…」
俺はもう、牝馬に姿を変える力を失ってしまったけれど、
出来たとしても、もう君の元へと駆けていくことは叶わない。
でも、たまにで良いから…俺のこと、連れ出してくれないかな?
また、Fenrirの背中に乗りたい。
Siriusの元へ、挨拶しに行きたいし。
一緒にまた、冒険だってしたい。
また…また、今まで通りにさ…
「そんなお願いの仕方をされては、断れぬだろう。」
「……。」
「…ありがとう。」
俺達は今、Fenrirが住んでいたあの洞穴に向っている。
彼からしてみれば、正式にヴェズーヴァの群れに迎え入れられてからだから、おおよそ一月ぶり。
俺の知る限り、Fenrirはあれから一度もヴァン川の対岸へと足を運んでいない。
招集に応じることを選んだ彼なりの意思表示なのだろうと思うが、その殊勝な行いは、きっと心のうちに激しい罪悪感を産んでいたことだろう。
そして、俺からしてみると、この再訪は。
……。
あの時、以来だ。
胸が、潰れる。
俺が、彼による ’追放’ を、言い渡された時だ。
あれから一度も、俺は其処にいなかった。
彼は今回の帰省の目的を、次のように零していた。
これは、墓参りである、と。
献花の用意をさせて欲しいと願い出たが、彼は一頭の分け前で十分だとそれを断った。
今までも、ずっとそうしていたから。
そうした供え物さえ、俺の自己満足とあっては、
これ以上花を添える意味もあるまい、と。
だから代わりに道中、ずっと頭の中で、自分が彼に向けてどんな挨拶をするのだろうかと、そればかりに考えを巡らせていたのだった。
「本当に、ついて行って、良かったの…?」
挙句の果てに、そんな質問が口を突いて出てしまうものだから、Fenrirは嫌味も無く笑ってそれを否定した。
「墓参りも自分一匹だけで行くと、どうしても思い詰めてしまうからな。誰かが付いてきてくれるのなら、それはそれで気が楽だ。」
「それに、飽くまで主の目的であるだけであって、他に幾つか済ませたい用事も口に咥えている。」
「…ヴェズーヴァでの暮らしも軌道に乗って来た。あいつらからお前さんへの無理難題もひと段落したようだし、そろそろ本格的に引っ越しを進めたいと思っていたのだ。」
引っ越し、というと。
何か持ち帰りたいものでも、あったのだろうか。
それだったら、いつでも群れを離れてくれて良かったのに。
「…まあ、色々と忙しかったのだ。俺も俺なりに、な。」
「…悪く思わないでくれ。お前を補助する立場が必要だろうとも考えたが、今回は留守番を任せさせて貰った。…正直、嫌な予感はまだ拭えていない。主の居ぬ間も、用心には越したことは無いのだ。」
「全然、構わないよ。…寧ろ、君と二人っきりになりたいなって、思っていたところだから。」
「ふむ、奇遇なこともあるものだ。」
「それに、この荒れ果てた景色をSkaたちに見せるのは、率直に言って気が引けてな。」
出来ることなら、冬を一度越えさせて、傷が癒えてから遊び場とさせてやりたいのだ。
まあ、積雪が一通り済んだ段階でも構いはしないのだが。
少々早すぎるか?と考えている。
「分かってる、できれば此方に、群れの狼たちを一匹で出歩かせたく無いんだろ?」
「うむ…」
勿論、此方の森の管轄は、君にお任せするよ。
狼たちを正しく導けるのも、君の助言なしでは無理だ。
これからも、君の意見が重要になって来ると思うから、そういうのは正直に相談してくれるとありがたいな。
「それはSkaの仕事だ。的確な判断など、群れ全体を見渡す力のある奴にしか成し得ぬ。」
俺は、参謀としての役割程度しか果たせない。
危険な臭いのする場所を、前もって知らせるような、統制の取れた群れの一匹という、健全な役割だ。
俺がいるから、生存率が飛躍的高まるとは、期待しないで欲しい。
謙遜や、保険を掛けているのではない。
記憶に頼った警鐘が関の山で、俺は結局、狼としての経験値においては、誰よりも乏しいのだ。
「しかし、お前の言う通りだ。ヴァン川を持って西部に関する警戒は、引き続き高めていくつもりでいる。」
「…今回の踏査は、それも兼ねているのだ。」