217. 有事対策
217. Contingency Plan
「…さあ、これで最後だ。」
何だったのだろう。
たった今、Fenrirが垣間見せた狂気は。
まだ、動悸が収まらない。
俺は、Fenrirにさえ、駒にされたのでは無いだろうか。
そんな疑念が、未だに頭の中で渦巻いている。
これがOdinとFenrirの対話による直接対決であることは百も承知だ。
俺は、二人の間を取り持つ、媒介者でしかないことも。
「…次が、最終問題だったな?」
勿論、それで良いんだ。それで良い。
この舞台から降りたいと願ったのは、俺自身だ。
ただの老い耄れた人間として余生を彼女と謳歌できるなら、喜んで自らの地位を貶めて良かった。
けれど。
ただ、Odinによって遣われるのとは、また違った失望を彼の冷笑に感じたのも確かだ。
どちらも、俺のことを結局は、脇役としか、見ていないんじゃないかって。
それで良いけど。良いのだけれど。
俺は、自分が思うよりも、もっと大きな陰謀の罠に嵌りつつある。
そんな直感が、絶えず脳裏で激しく警鐘を鳴らしていたのだ。
「どうした、Teus。」
「これでようやく、次に進める。」
「その書物の巻末を開き、読み上げてくれ。」
「…第16問目だ。」
Fenrirの微笑みに、悪意が感じられる。
邪推に決まっている。
ニヤニヤと、獲物の間抜けさを嘲るようなそれとは程遠い。
けれど、途方に暮れた俺は、彼の指示が理解できているにも拘わらず、
おろおろと彼を見上げる始末だったのだ。
「さあ、Teus。」
「開くのだ。」
「Teusっ!!」
「っ……」
鋭い唸り声に、金縛りに合っていたかのように硬直していた身体がびくりと動いた。
「わ、わかったよ……」
正直、頭が真っ白になって、何も考えられなくなっていた。
命じられるままに、書物を開くべきでは無かったと、今になっては激しく後悔している。
少なくとも、自分の方から、試験の中断を持ち掛けるぐらいの勇気は、捨てるべきじゃなかった。
「え、ええと……」
舌が縺れる。
兄弟暗号は愚か、母語さえ上手く紡げない。
「……?」
……?
な、なんだ…これ…?
飛び込んで来た問題文に、我が目を疑う。
第15問目はともすれば、Fenrirの存在を揺るがしかねないような、それだったから。
正直、これ以上に悪意に満ちた問題が投げかけられることは無いだろうと思っていた。
「我が子の死に際し、火葬薪の上に捧げられた遺体の耳元へ、Odinが囁いた言葉は?」
「……以上だ。」
わかるはずが無い。
この問題の答えは、俺でさえも知らない。
知っているのは、誰にだって聞こえないように囁いた、Odin本人だけだ。
けれど、それだけではこの問いに横たわる不自然さは拭えない。
Odin以外で、手向けの言葉を聞き取ることが出来た人物が、いるとしたら?
そいつは狼のように耳が良いか。
あるいは、
…既に死者へと成り果てた、その子供の耳だけだ。
「本人に聞くのが、一番速かろう。」
賢狼は即座に、その答えに辿り着いてみせた。
「一足遅かったと言うべきだな。もし、彼女がこの土地を訪れた際に、尋ねることができていれば…」
「我々はどうやらヘルヘイムで、人探しをするところから始めなくてはならない。」
冗談で言っているのか?
或いは、そうできる根拠を隠し持っているとでも?
「Odinの子の名前は?」
「わ、わかんないな…子供なんて、いっぱいいるから…」
「そんなに沢山、Odinは我が子を失っているのか?」
「あー…、ごめん。そうじゃなくって…」
いいや、それは違う。違うんだ、Fenrir。
これは、補足して良いことだよね?
流石に、試験問題に不備があると言わざるを得ない。
答さえ直接教えなければ、ある程度の助力は許されるはずだ。
「此処で述べられている子供というのは、まだ存命だと思うよ…」
「少なくとも、最後にアースガルズへ訪れた時は、そんな話は聞かなかった。」
勿論、そのあとに何か、急報があった可能性はあるけれども。
俺がこの前にアースガルズに招集されたのも、そう言った悲報があって、葬式に参列するためだったから。
そう言った知らせは、俺が受け取って然るべきなんだ。
神々に知れ渡るぐらい、重要な人物であることは、言うまでもないよね。
Odinの息子って、王子様みたいなものだから。
「はぁーっ……」
彼は分からず屋の仔狼に呆れるように溜息を吐き、力なく首を振って躊躇いなく悪態を呟いた。
「意地悪な問題だな。対話を通して手掛かりを得よ、という姿勢は一貫しているつもりか?」
「ならば不思議だ。」
「そいつが、Odinよりも先に命を絶つということは、決まっているみたいじゃないか?」
「……。」
「そして、哀れな息子の逃れられぬ運命を、大層嘆いているように見受けられる。
しかし、彼の力を以てしても、逃れようの無いことだと自覚しておられるのか?」
「わ、わからない…」
「避け難い、予言。
そんなものが、彼の眼には見えてしまっていると?」
「聞いたこと無いよ。そんなの…」
「だとすれば、何とも都合の良い予言じゃないか。」
「そんなに重要な人物の命運が予言出来てしまえるのなら。
どうしてお前たちは、第15問目の答えを、自らの力で探ろうとしない?」
「いいや、そんなはずは無いよな。
お前達が、天災を審判であるとして、絶望に打ち拉がれる人間と同じだとは到底思えん。」
「必ず、自分たちの滅亡を見通している筈だ。
その上で、俺に問いかけた。」
「俺に、同じような予言の力を確かめる為か?
そんな馬鹿な理由であるはずがあるか。」
「ならばお前が、
お前が知っている訳が無いじゃないか。」
「なあ、Teus?」
「……。」
彼は、飽くまで指示に忠実に、対話を通して、Odinの意図を汲み取ろうと推論を進めているつもりのようだった。
しかし、俺にはもう、その質問に答えることができない。
試験は、これで終わりだ。
もう、続けていられない。
そう彼に伝えたいのに。
次に、Fenrirが何て言いだすか。
信じていたのに。
そう言われるんじゃないか。
想像しただけで、もう口を開けなくなってしまった。
「ふうん…」
とうとうだんまりを決め込んでしまった俺のことを、彼は醒めた眼で見降ろしていた。
そしてどういう訳か、飽くまでこの問題を主題としていて、恐らく最も問い詰めたい真実には、触れようとすらしない。
それが、獲物の退路を塞いでいるようで、空恐ろしいことこの上なかった。
「つまり、こういうことだ。」
「息子の亡骸に送る言葉など、自分でもその時になってみないと分からないから。誰にも言い当てることなどできまい、と。」
「従って、この知恵比べは、お前の勝ちである。そう結びたいのであるな?」
「これは、参ったな。随分と一方的であることだ。」
「尤も、それを予見できていない時点で、高が知れていると言うことか…?」
「面白い…」
口調こそ荒げなかったものの、大きく見開かれたその眼には、ありありと敵意の表情が映し出されていて。
ともすれば、悪意にさえ捉えられたのだ。
ゴロゴロロロ…
静かに怒りを露にした大狼の機嫌へ媚びるように、遠くで落雷の木霊が聞こえる。
試験が終われば、嵐は過ぎ去って爽やかな朝日が訪れるような気がしていたのに。
雲行きは益々悪く、激しく荒れるばかりだ。
Fenrirが吠え猛ったなら、それは更に呼応し、
恐ろしい唸りを伴ってヴェズーヴァを直撃しないかと不安になる。
ゴロロ…ゴロロォォォ…
そうでなくとも、ただでさえ、天高く聳える神立図書館は、
雷竜にとって、格好の避雷針であるのだから。
ドゴロロロロォォッッッッ!!
「……!?」
パシンッ…
一瞬、天窓から強烈な光が降り注いだかと思うと。
「…えっ?」
館内の照明が消えた。
それと同時に、俺の鼻先に何かが触れる感触がして。
「Fen……!?」
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「……。」
虚ろな頭の中で、狼の話声が響く。
俺は、あの洞穴にでもなってしまったらしい。
「その答え、確かに知り得るのは、主だけであるようだ。」
「その時の主と、予言を垣間見た主しか知り得ず。
我には窺い知る事が叶わぬ。」
「…しかし、どう思う?」
「主よ、そこに ’我’ は、おらぬかったか?」
「我もまた、その場で主の咽びに、耳を傾けてはいなかったか?」
「…ならば、それで良い。我の戯言と聞き流したまえよ。」
「ああ…主よ。しかし、その問いかけは、一つの疑問を産む。」
「主は、その息子の名を、語らなかった。」
「主は、彼女の元へと送り届ける息子を、一人知り得ているに過ぎぬ。」
「主の未だ見ぬ予言の何処かに。」
「…或いはその死神、臨場しておるやも知れぬな。」
「そうして、手向けに囁いた言葉を耳にしておる、我を思い浮かべて。」
「どれ、予言の一つでも、主に送ってやろうでは無いか。」
「おお。主はその時、このように叫ぶであろうぞ…」
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「…ご覧の通りだ。父なる主神よ。」
「お前の頭ん中も、覗かせて貰ったよ。」
「そういう訳で、この知恵比べは、引き分けだ。」
「お互いこれに見合う値打ちが、あると良いな。」