216. 背くもの
216. It that betrays
俺は彼女の手を握り、フード越しに聞こえる彼女の囁きにだけ耳を傾け、全神経を集中させる。
「Nu-ți face griji, sunt aici pentru tine.」
それ以外の言葉に、耳を貸す必要は無い。
彼女だけ、彼女の声だけに、集中するんだ。
左眼は、眼球が視神経から千切れそうになるくらいに、視界の端を凝視していた。
もう、Fenrirの方には一瞥もくれなくて良い。
何故なら、彼の指示は全て、狼たちが代弁してくれるから。
“ちゃんとついて来いよ?お前の為に、優しく丁寧に解説すればするほど、父なる神に先を越される。
お前の敗北の霧は益々濃くなるのだ。”
“呑み込みが悪いことは承知の上だ。神様だから、こういった努力をせずとも、言語を身に着けることが出来ていたんだろう?”
“良かったじゃないか。お前はもう、立派な人間様だ。”
ちょっと小ばかにしながら元気づけようと混ぜ込んで来る、彼の辛辣な嫌味も。
今は無視するしかない。
「Da, …și?」
あらゆる感覚は首輪を嵌められ、白日の元に晒されている。
どんなに些細な嘘さえ、神様の前に吐くことは許されない。
生命維持装置に繋がれた、半死の身体。
それでもまだ、Fenrir達によって、どうにか生き永らえている。
わかってる、此処まで来たんだ。
行き着く先が何であろうと。
もう出来る、出来ないじゃない。
やるか、やらないかだ。
息をするのも忘れるぐらいに、没頭してしまえ。
どうなっても良い。
Fenrir、Freya、群れ仲間たち、どうか俺に、力を貸してくれ。
Odinに、一矢報いてやりたい。
兄弟暗号の口語的習得。
その為に彼の組み上げたカリキュラムは以下のようなものだった。
俺に即席で求められている能力は二つ。
自分の中で既に明確な表現したい意志を、暗号へ変換すること。
そして、翻訳された言語を正しく発音することで、Fenrirに伝えることだ。
此方からしてみれば、暗中模索にも等しい状態からいきなり外国語を習い始めなくてはならない。
それも、今すぐに、知恵の神よりも先になんて。
しかも試験の不正がばれれば、俺達の未来は無い。
窒息してしまいそうなほどの重圧だ。
“別に、流暢な会話をさせたい訳ではないからな。”
しかし教える側からしてみれば、教えるべきことをある程度は絞れているので、そんなに悲観的であるという訳ではないらしい。
視座の高さに明確な差が生まれている今の構図が容易に想像できる。
“お前が口にしたい文章など、大体想像がつく。”
とても心強く、今は身を委ねるしかない。
“良いか、今からお前へ、サンプルテキストを5つ送らせる。”
彼は表情一つ変えずに、そう説明した。
“絶対に聞き逃すな。好機はそれぞれ一度だけだと思え。それがお前の手札…基本形になる。”
ゆっくりと2度瞬きをして、分かったよと答える。
“手札が0枚というのだけは、勘弁してくれ。そこまでお前が馬鹿だとは思っちゃいないが。”
めっちゃ煽って来るじゃん。
そういう風に言うと、逆に緊張するんだけど…
君が何処まで防衛網を引けているかを試す羽目には陥りたくないなあ。
これじゃあまるで、俺の方が聞き取り問題を解かされているみたいだ。
試験官は、神界の長さえも凌ぎ欺こうとしてしまう巨大な狼。
生きて此処から出たければ、彼の課す課題をクリアするしかないね。
メモを取りたいよ、なんて弱音を吐いている場合じゃない。
“…健闘を祈る。”
「テュールさん…?」
緊張して身構え過ぎた。肩をびくっとさせて、少し驚かせてしまう。
「う、うん…どうしたの…?」
「Fenrirごめん、ちょっとFreyaが…」
「何だ、良い所であるのに…」
白々しいけど、それも此処まで来ると楽しくなってくる。
「Când îmi voi da ultima suflare, va fi din cauza mortalității mele, nu a ta.」
そうしてFreyaから文法の型を幾つか与えられ、
その囁きは、即座に本棚の狼たちが翻訳して字幕を付けられる。
頭から順に訳されていくから、文法は滅茶苦茶だが、意味は十分に通じる。
「Bine, …în regulă.」
今のは、そういう意味だったのかと納得し、耳に残った音の感じを頭の中で反復しながら。
俺は恰も、この言語に精通しているかのようなふりをして、相槌を打つのだ。
彼女は汎用性の高そうな文章を、幾つか用意してくれているらしかった。
確かに、そんな風に言えたなら、どうにか意志の疎通が叶いそうだ。
あとは穴埋め形式で、俺はそいつを上手く使えば良いらしい。
次に必要になってくるのは語彙だ。
単語帳の代わりになるものは、あるのかい?
それこそ、無数にある中で、俺が使いたい言の葉をFenrirが予想できるのなら。
態々、俺に答えを吐かせる必要も無いって話だ。
“ああ。此処から先は、多少運も絡んで来る…”
“Teus、地の利を得ようではないか。”
「Am o carte pe care vreau să o continui să o citesc. Poți să mi-o aduci?」
“彼女に、本を届けるよう要求させた。お前は快諾し、席を立て。”
「え…良いけど、何だい?」
“此処は図書館だ。お前が探している本が、きっとある。”
幾つか抜き出して、持ち帰ってこい。
そいつらの題名を片っ端から翻訳してやる。
ああ、分かっているとは思うが、狼たちのいない開架を探すのだぞ。
さあ急げ。できる限り早く、出会えると良いな。
「ああ、あれね。何処にあったかなあ…」
階段を何度か上り、うろうろと彷徨っていながら、目ぼしい書物を手当たり次第に引き抜いて。
どうにかして、手札を揃えることは出来た。
Fenrirにそう指示された訳ではないけれど、一応自分の視界に入っているものになるので、ダミーとして適当な題名のものも幾つか混ぜてはある。
「Hei, îmi pare rău că te-am făcut să aștepți.…」
両手いっぱいに抱えた山を机の上に置くと、俺は彼女にそう笑いかけた。
「Vă mulțumim!」
「Cu atâtea cărți din care poți alege, nu există niciodată un moment de plictiseală în serile lungi!」
なんだか、楽しいな。
きっとルインフィールド兄弟も、自分達だけに通じるやり取りに、同じ高揚感を得ていたに違いない。
「……。」
乾いた唇を舐め、それから口の中で、舌を動かしながら、俺は初めての兄弟暗号を口ずさむ練習を繰り返す。
彼が何故そこまでして、Odinの問いかけに答えようとしているのか。
試験で好成績を残し続け、最終問題へ辿り着くことに、どんな意味があるのか。
そんな風に思っていたけれど。
違ったんだ。
彼は、この時を待っていたんだ、と思う。
“世界が滅びる時、
それは誰によって、何が原因である為か?
神々が滅びるとき、
その時は、我らが主神でさえも、いずれ命尽きるだろう。
彼に最期を齎す者は、誰だと考えるか?“
彼は、答え合わせがしたかったんだ。
Fenrir…
君は、俺が教えずとも
この問いの答えを、知っていたよね?
全ては、この瞬間の為。
「Freya…」
「Da, ce e?」
俺は遂に、それを口にする。
あまりの高揚感に、目の色が変わっていくのを感じる。
牙があったなら、艶やかに濡れた先を覗かせて笑っていたことだろう。
まるで…
そう、狼みたいに。
「……。」
「Lupul îl va …」
「…înghiți pe tatăl tuturor …」
「…și se va răzbuna.」
「クククッ……」
「え……?」
その時俺は、ひやりと背筋に触れる牙の冷たさを感じた。
「Teusよ、従って俺の考える答えは、次のようなものだ。」
「それは、お前たちが目にしたことの無い怪物ではないことは明らかだ…」
「……。」
ふと、ある疑念が頭を擡げる。
俺は狼に、騙されたのだ、と。
俺自身さえも、彼にとっては手段でしかないと気が付かされた。
彼は、神様との知恵の対話なんて、どうでも良かったんだ。
本当の目的は、Fenrirが、
‘予言を知らないまま’ でいることだったのではないかと、今になって思う。
「…それは嘗ての巨人の裏切り者である…何故なら…」
Fenrirは予想に反し、俺が口にした言葉とは、全く関係の無い答えを申告する。
「故に、注意せよ。お前達に破滅を齎す者は、同胞に潜んでいると心得るのが良いぞ。」
俺の発音が流暢とは程遠いものであったからか。
それは知る由もない。
第15問目に対する彼の解答は以上だ。




