215. 蓋然的推論
214. Plausible Reasoning
寧ろ、嬉しかったのだと思う。
Fenrir、君はきっと、喜んでいたはずだ。
自分の精神の内の一部に、君と同じ名を与えられた大狼が巣食ったことを。
それこそが、君が夢見た自分自身の到達だ。
君がなりたいと希った姿になれたのなら、俺もうれしい。
無謀で、愚かなお人好しの真似をした甲斐があった。
けどね、今俺は、心底ほっとしているよ。
俺の中に、彼女はいない。
Freyaはいないんだ。
ごめんね、君の喜びとは矛盾する。
否定するつもりは無い。
でも、俺の中で生き続けるような誰かが、
一緒にこの余生を苦しむようなこと。
想像するだけでごめんなんだ。
自分の内だけに止めて地獄までもって行こうと決めた過ちを、
最期まで添い遂げようと決めた彼女にこっそりと覗かれるなんて。
心底ぞっとする。
恥ずかしいとか、後ろめたいとか、そんなんじゃなくて。
俺はやっぱり。
ただ死ぬときは。
一人で死なせてくれないかなって。
違うんだ。
誰かに看取られるのが嫌だって言うんじゃない。
俺は、死ぬよね。
これまで生きた年月に比べれば、秒読みの命だ。
それをFenrirやSkaが、涙を見せずに見守ってくれること、心の何処かで期待してる。
今までの、どの瞬間よりも安らかなんだろう。
君たちの笑顔を胸に焼き付けておけば。
溺れるようにして地獄へ堕ちるのも、きっと怖くなくなる。
わかる、分かるんだよ。
自分の中に、君たちの面影を、いつでも思い出せるのなら。
そんな旅路もどれだけ強く振舞えるだろうって思うから。
でもさ。でもさあ。
俺の中で生き継ぐ君は、一緒に来ちゃいけない。
死に果てた後、俺の魂は、正しく解放を許される?
俺の一部を担ってくれた彼女の魂は、きちんとあるべき世界へと登っていく?
そうだったなら、どれほど都合よく救われたことだろう。
でも違うよね。そんなにうまく行くほど、この物語は良く出来ちゃいない。
君は、Siriusの気持ちに、なってみたことはあるかい?
勿論、片時も忘れることなく、彼のことを考えていたことだろう。
けど、そうじゃなくて。君の考える、彼自身となることとは、逆方向の想像を、したことはあったかい?
君自身が、ある時からの生を、Siriusとして生きる奇跡を、君が望んだ一致であるとするならば。
君自身が、彼のある時からの死を、君が代わって歩くような。
そんな一致を、考えたことはあるかい?
もしもあの大狼が、きちんとこの世を去れたなら。
そう悔い続けながら、剥がれず残った瘡蓋を愛おしく撫でていた君を見るのは、
本当に辛かった。
死んだって、それで終わりになるものか。
「其処から先は、どうか孤独な道であれ。」
それは殆ど、確約された未来だから。
俺はGarmに、そう宣告されたんだ。
獲物として、標的を定められた。
どうあっても、間違わない。
彼の狩りが、失敗に終わることなど、あり得ない。
その先、俺がどうなるかも。
決まっているんだ。
決まっている、か。
そう思うと、まるで吸い寄せられているようで。
俺の中に、血の繋がりさえ無いあの人の意志が息づいているようで、
それはそれで、悪くない気分だね。
ご迷惑だったら、申し訳ないです。
でも俺は誰とも、’その先’ の世界を歩きたくなんか無いんだ。
だから…これで、良いのだと思う。
「Fenrir、ちょうど良い話を思い出したよ。」
「……?」
「俺が一度聞いてから、ずっと忘れられなくて、何が怖いのかさえも、良く分からなくなった話。」
俺が幼い頃に聞かされたもので、異常な恐怖を覚えたものを教えて欲しい。
そういう話だったね?
「…注意深く聞かせて貰おう。」
仕事柄、とでも言えば良いのかな、俺は…
いや、別にもう、隠し立てするようなことでも無いか。
俺は、この世界では無い何処かで、神様のお勤めをずーっと果たしてきた。
そう。まだ軍神っていう、立派なお役目を任されていた頃の話だ。
今此処で、俺がどんな風に戦争を終わらせて来たかについては、話すつもりはない。
様々な世界を渡り歩いて、似たり寄ったりの戦場をぼんやりと眺め、漫然と彷徨っていただけだと言えば、嘘になる。
でも本当にやってきたことを、俺は淡々と話してしまいそうで、そんな意図もなく、君を激昂させてしまう自信があるから。
俺が死ぬ間際に、吐かせて。
「怖いと思った話は、そんな世界を流離う中で、とある旅人から聞かせて貰った話なんだ。」
「…?お前自身が遭遇した恐怖では無い、と?」
「そうは言ってない。身に即して考えると、非常によく当てはまるので驚いたのさ。」
何の気なしに、そんな話題を振っただけだったのに。
まるで、俺の正体を見破っているみたいだったなあ。
「‘別世界へと足を踏み入れる’ことを、その人はひどく怖がっていた。」
「……。」
俺が人間の暮らす世界へと降り立つ時、それを俺自身は、アースガルズからミッドガルドへ、単に平面を移し替えているだけだという風に捉えていた。
ヴェズーヴァから、君の暮らす対岸へ飛び移るぐらいの構造であるとね。
けれど、その男の考え方は、一風変わっていたんだ。
自分自身が、飛び移った世界で目覚めた時、
本当は、元の世界に自分は取り残され続けたままなのでは?
そんな疑念を打ち砕く術を、ミッドガルドにいる俺は、持ち合わせていないんじゃないか?
彼はそう言うんだ。そうでないと、示せないでしょう、と。
つまり、今人間界にいる俺は、俺自身のコピーであるって言うのさ。
それは、細胞の一つ一つ、それまで経験してきたあらゆる記憶を、そっくりそのまま持ち合わせた、完全な複製。
でもその俺は、元の世界に取り残された自分のことを知らないし、何ならそんなものは、存在などしていないと考えている。
自分自身が、唯一無二のそれであると、信じて疑わない。
それは、貴方ですか?
だから俺は、こう言い返したよ。
しかし、人間の世界に降り立った新しい自分は、元の世界に戻る術を知っています。
ええ、完全に、人間の世界にいた頃の記憶を引き継いだまま、また元の世界で、一人の自分として生き続けることができるのですってね。
そうしたら、
そう、その時なのです、と。
その時、元居た世界で、貴方の帰りを待ち続けていた貴方は、ある日人間の世界から舞い戻って来た貴方の記憶によって、突然自身の記憶を上書きされてしまいます。
その上書きされた貴方は、貴方であると言い張るでしょう。
その時、貴方はふと、こんな恐怖に身を齧られるのです。
人間界の世界に居た自分は、貴方自身では無かったのですか?
ええ、勿論、貴方は元の世界にそいつは移動したと仰いますね。
ですが、想像してみてください。
もしも本当は、人間の世界に居た貴方が、元の世界に戻る為の手段が、
やはりコピーを転写することによって為されるのだとしたら。
元の世界に戻っていく自分を鮮明に想像しながら絶望するでしょう。
貴方は、人間の世界で取り残されたままなのです。
そこにいる貴方は、どうあっても、帰還を果たすことは出来ない。
3人の内で、最も不運な貴方であると、お思いになりませんか?
Odinが、俺の心の隙間にまで入り込んで来ることをしなかったのも、
もしこんな考えが、頭の片隅にでもあったから。
そう思うと、何となく理解できる気がする。
そんなことしたら、俺の精神諸とも、無残な最期を迎える自分が残るからだ。
彼自身は知覚できずに、アースガルズの何処かで朽ち果てるのだとしても。
俺の中に巣食った、もう一人のOdin自身は、最早彼の駒としての鴉では無い。
一線を越えることを、恐れているんだ。
俺の最期を、閉じた眼が知っているからだ。
彼は俺の立つ薄氷の上にいない。
それがはっきりとしただけで、俺は心から安らかな気持ちでいる。
「……。」
「そんな所だ。」
「これで、おしまい、かな。」