214. 母語 4
214. Mother Tongue 4
Fenrirとの会話は、いったん後回しだ。
「よいしょっと…配達ご苦労様、Ska…」
お嬢様抱っこでFreyaを受け取り、どうにかして自分の隣に座らせる。
危ない所だった。
一瞬、腰に鋭い痛みが走って、到頭俺のご老体も悲鳴を上げたかと冷や汗をかいたけれど、なんとか情けない声と共に姿勢を崩さずに済んだ。
彼女の身体も、随分軽くなった、などと悲しみに暮れている場合では無かったらしい。
Skaが余りにも軽々と彼女を運んできたので、そんな印象が先行してしまっただけだ。
きっと俺の身体だって、何でもないというように引っ張ってくれる。
最後に自分の首元に回された彼女の腕を優しく膝元に於いてやると、俺もその隣に腰かけた。
「Vă mulțumim pentru eforturile depuse, Skyline.」
うん…?今、最後にSkaって言ったかな?
完全に別の言語の中に混ざると、実は全然違う単語でも、知っている言葉に聞こえてしまうことはよくある。
そのせいで、却って大きな誤解が生まれて、本当に伝えたかった意図から乖離してしまうことも。
“ウッフ…”
今のSkaの反応は、注目に値した。
もしかして、彼は彼女が話す言葉を、兄弟暗号を理解しているのか…?
得てして人間って勝手だから、なんだか自分が言葉の通じない動物と意思の疎通が取れていると思い込んでしまいがちだ。そういった思い込みは、激しく猛省しなくてはならない。
でもSkaとなると、全然あり得ない話ではない気もしてくるから、この狼の才能たるや恐ろしい。
だとしたら、いつの間に…?
しかし、それを言い出したら、Freyaがそのうちの一人であったという事実も驚くべきことなんだ。
先までのFenrirの解説によれば、その言語はヴァン神族の間でも普及していない。完全に閉じられた仲間内でしか使われていない言葉だったはずだ。
限られた人物、そのうちの一人。
Freyaがそうだったことも、今思えば辻褄は合うと言えるかも知れない。
ゴルトさんの兄、ダイラスが亡くなったのは、彼女をこの世に迎えて間もなかったと言う。
そしてあの事件が起きた日、Freyaは、ヴァナヘイムの片割れ、ヴェズーヴァと共に、忽然と姿を消したのだ。
彼女が、再びヴァナヘイムの廃屋へと密かに戻されるまで、あの大狼と過ごしたとされる期間は、定かではないけれど。
確かに彼女は、Siriusに育てられている。
Freyaは、あの狼と、何を話しただろう。
どんな臭いを嗅ぎ、どんなことを教わったのか。
もしもSiriusが、彼の友達を通して聞きかじった、人間の知識を授けてやろうと思い立ったなら。
彼女が初めに覚えた言葉は、文字は、何になる?
「……。」
思わず、天井を仰いで溜息を吐いてしまった。
どうしてこう、俺だけが置いてけぼりを喰らっているのだろう。
ずっと蚊帳の外だ。
彼らの物語には、入り込む余地がまるでない。
交差したかに思えた道だけど。
それは再び、どんどんと距離を開けているような気がしてならないんだ。
「…Vei fi bine. Știu că vei fi.」
Freyaは俺の隣で、そう呟くと自分の頭を肩へと傾けた。
きっと、自分のことを安心させようと言葉をかけてくれている。
「うん…大丈夫。ありがとう。」
彼女は、兄弟暗号を読めるのだ。
怖い。怖くて、堪らないけれど。
俺はその手記に書かれている内容を、彼女の助力によって解読できると分かった。
急に突然、読めるようになったりはしない。
少しずつ、殆ど、答え合わせのような気持ちで読み進めることになると思っている。
でもこの試練が全部、終わったら。
Fenrirには黙って、実行に移すつもりだ。
だから今は、目の前の難題に対峙しよう。
達成すべき目標は、兄弟暗号を用いて、それとなくFenrirに解答を示すこと。
それも、Odinがこの言語の解読を完了させてしまう前に。
「それで、Fenrir。俺はどうしたら良いのだっけ…?」
表面上の会話では、幾つかアース神族の間で語り継がれている逸話について質問をされていたところだ。
確か、自分たちに終焉を齎すと怯えている怪物は、嘗て自分たちが対峙したと語り継がれる英雄譚の何処かに潜んでいる。だから、まずは俺が幼い頃に聞かされたもので、異常な恐怖を覚えたものを教えて欲しいと。
だから、今度は自分が、Fenrirと同じことをする番なのだ。
適当で当たり障りのない会話を続けながら、Freyaに向けて、メッセージを送らなくてはならない。
次なる指令を聞き逃すまいと震える息を吐いて、左眼に映る視界に集中した。
寄りかかった彼女の重さを感じている右肩に、うまく力が入らない。
何をいまさら、自分の妻に触れることに、緊張なんかしているんだ。
これで何度目か分からないが、脳が二つ欲しい。
片方ですら、遂行できる気がしなかった。
だから落ち着いて、Fenrirの助言に従おう。
きっと、成就させてくれる。
期待を込めて、目の前の大狼を見つめた。
「うん…?」
しかしどうしたことだろう。
Fenrirは、その会話を自然に繋ぐことすら忘れて、きょとんとした表情で眼を瞬かせるのだ。
な、なんだ…?
何か、噛み合っていないみたいだぞ?
ひょっとして、本棚のメッセージを読み間違えたのか…?
今までが奇跡的に上手く意思の疎通が取れていただけで、本来であれば、こうなって当たり前だ。
俺なんて、Fenrirみたいに頭が良い訳では無いのだから、何処かで必ず齟齬が発生して、当たり前の前提に躓かせられる。
だけど、本の配列は、最後にFenrirが伝えた言葉の通りに傾けられたままだ。
俺は何を見落としている?
或いはFenrirが、何か、大きな落とし穴に気が付いた?
「ど、どうしたんだ…Fenrir?」
どうにか、答えてくれよ。
お互いに、いつまでも黙りこけていては、流石に怪しまれる。
“もしかして…”
“お前、分からないのか…?”
え?
分からないって、何が?
“2回のゆっくりな瞬きで、Yes。
…3回の素早い瞬きで、Noだ。“
だ、だから、何の話をしている?
何が、分からないって?
俺はもう、訳が分からず、一度も瞬きをしないことで、その質問の意味を理解できていないことを示そうとした。
“嘘だろ?”
あのFenrirが、ぽかんと口を開いている。
“まさかお前…”
“喋れないのか…?”