214. 母語 3
214. Mother Tongue 3
一度目を醒ませば、彼は忽ち優秀な運び屋として活躍しはじめた。
俺はいつも、大小の狼が揃って横に並んで何やら話し込んでいるのを見て、なんだか嬉しい気持ちになってしまうのだった。
“Ska、まずは俺の方からも伝言を頼みたい。出来そうか?”
“承知しました。なんてTeus様にお伝えすれば良いんです?”
“いや、あいつにでは無い。Teusに何かメッセージを送りたいのであれば、今まで通り本棚の前にいる彼らに頼んでいるさ。”
“あ、そっか。そうですね。じゃあ…”
“うむ、Freyaの方だ。”
Fenrirは、じっとSkaから視線を逸らさず、熱心に語り掛けている。
“彼女はたった今、俺たちの会話の輪に参加する権利を得た。舞台に上がる為のきっかけは、彼女によって齎されるのが、自然な流れであると言えよう。”
“は、はあ…?”
“まあ良い。とにかく、今の伝言を、Freyaに伝えて貰えれば十分だ。彼女は、お前の言葉を完全に理解しているのだろう?”
“ええ、Freyaさんになら、きっと通じる筈です。”
“うむ。彼女はお前と、ちょうど対となる言語能力を有しているからな。”
“と、仰いますと…?”
“お前は、狼の言葉に対して、ネイティブであるな。仲間の狼の言葉を聞いて、自分の意志を同じ方式で返せる。しかし、人間の言葉については、多少の不自由を覚えているはずだ。Teusの戯言を完全に理解することは出来ても、お前はTeusと同じように、人間の言葉で話すことは叶わない。”
“その通りです…”
“Freyaもまた、同じ悩みを抱えているという訳だ。
彼女は人間であるが故に、Teusとは少ない言葉を交わすだけで番足り得る。しかし、狼の仔とて、お前の言葉を完全に理解することは容易くとも、やはりお前と同じ言葉で返すことは、完全には成し得ないのだな。”
“そう、なんですね…”
“対、というのはそういうことだ。お前とFreyaが一緒になれば、完璧に狼の言葉を理解しながら人間の言葉で語りかけることができる。その逆だって、自由自在にな。”
“…なんだか、僕嬉しいです。”
“彼女もそう思っていることだろうよ。さあ、行ってこい。”
“あ、でもちょっと待ってください。”
“なんだ?何か不審な点があればすぐに…”
“Teus様のお遣いがまだでした。先に羽ペンお渡しして来ても良いですか?”
“……。さっさと行ってこい。”
“はーい!!”
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一頻りの密談を終えると、SkaはFenrirに首根っこを咥えられ、長机の上へと登壇を許されていた。
「今回だけだからな…」
普段であれば、館内での無礼な真似は慎むようにと五月蠅い彼なのだが、もしかしてSkaに強請られたりでもしたのかな?
“いやー、いっぺんで良いから、登って見たかったんですよね…”
確かにこれだと、立派な毛皮を纏った狼が闊歩するランウェイのように見えなくもない。
羽ペンの持ち手を咥えて、どや顔で窓辺を眺めているのは、自分が最高にカッコ良い狼であると陶酔しきっているからに違いなかった。
尻尾を高々と掲げ、カチャ、カチャと爪の音を立てながら、颯爽と此方へ向かってくる。
“Teusさまー!お待たせ致しましたー!!”
「お、ありがとうねー…」
脇で寝そべっていた狼たちが、眼を見開いてその姿を追いかけている。
Fenrir、ひょっとすると、一匹だけに特権を与えるのは、悪手だったんじゃないか…?
まあ、あんまり遊び場にしないよう、俺からも注意しておくけれど。
“ハッハッハッハッハ……”
対岸まで辿り着いたSkaの頬の毛皮をわしゃわしゃと撫でまわし、フードの中へ入り込んだ舌で顔面を舐め増され、目の前が何も見えなくなっていると、鋭い声が向こうから飛んできた。
「Teus、手短に話すぞ。」
「あ、ほら、Fenrirが話したいって…」
そろそろ離れておくれ?
どうやら、俺の託した手掛かりを鑑み、もう次なる一手を考え付いてくれたらしい。
Skaは変わらず俺の傍らで枕を欲してくれるものと期待していたのだが、降壇すると、すぐさま自分の元を離れて、何処かへ行ってしまった。
「Teusよ。俺もOdinほどじゃないが、この鉄の森の全域を隅々まで旅をし、方々を尋ね歩いてきたのだ…」
「…そして、この図書館もだ。」
Fenrirは、重々しく、ゆったりとした口調で、今度は自らの放浪記について話を始めた。
趣旨としては、彼自身が、今まで怪物の類に出会ったことがあったか、だと思う。
勿論、俺達の間での、表面上の会話では、だ。
主題として、また論理展開として、不自然さが無いよう、彼は聴衆を退屈させずに時間を稼ぎ続けている。
当然、その視界の端では、彼が本当に伝えたい作戦が、並行して綴られていく。
“良いか、Teus。お前の睨んだ通り、お前は意図せずして新たな伝達手段を手に入れていたことになる。
Freyaがお前に話しかけた言葉…あれが、俺が昔、お前に解読を依頼した暗号の正体だ。
Siriusと、ヴァン神族のあの兄弟たちが構築した言語であることは、もうお前に説明する必要の無いことだな?”
「う、うん…」
ああ、なんて忙しいんだ。二人の話をいっぺんに、それも小難しく耳慣れない話題を聞いている気分だ。
何か大事なことを、聞き漏らしていそうな不安に駆られる。
頭が、もう一つ欲しい。そんなこと思いながら、俺は時々もっともらしく相槌を打ちながら頷いていた。
その内容を書き取る側としては、どうでも良いと脳死で書記に徹せないのがもどかしい。
「だが、あれ程の恐怖…今まで体験したことは無かった…」
その話の流れは自然と、地獄よりの使者へと移っていく。
「そう…そうだね…」
つい先日、対峙したばかりの脅威だったというのに。
もう何年も前の出来事のように感じられる。
未だ鮮やかな傷跡を摩るのに、
それを、頭の片隅でしか思い返せない。
“今はそれを、兄弟暗号《Ruinfield’s Crypt》と呼ぶことにしよう。”
「兄弟…」
思わず、そう口走ってしまった。
「ごめん…何でもない…続けてくれ。」
“Teus、この状況において尚、兄弟暗号を扱えるというただ一点において、お前はOdinより勝っているのだ。
この言語は、明らかにヴァナヘイムにおいて普及している方言ではない。
彼が世界中を見聞きして回ったと自負していても、耳にしたことのない言葉の連なりに困惑している筈だ。
幾ら全知全能と言えども、お前の頭の中に、あいつはいないよ。
そう信じたいだけと言えば、それまでかも知れないが。
お前が俺に対して下した幾つもの決断は、Odinとは違ったよ。
お前は最期まで、飽きれるほどのお人好しだ。
その本質は、決して操られてなどいない。“
“あいつは、お前が兄弟暗号を会得する過程を、お前の記憶を辿ることによって省略することは出来ないと俺は考える。
もしあいつが幾つもの目を隻眼の裏に隠し持っていて、それが壁いっぱいに並べられた窓のようなものなのだとしたら。それは飽くまで、覗き込むことでしか情報を得られない監視の役割しか果たさない。
Odinは、学習しなくてはならないのだ。
見聞きしたことのない言語について、いずれは理解するだろう。
しかし、今此処で、直ちにとは行かない筈。”
“それ故、ネイティブによる、堂々とした嘲りが許されるんだよ。”
「……!?」
“ウッフ!ウッフ!!”
突然、Skaがけたたましく吠える声が館内に響き渡った。
“Teus様―!お届け物に参りました!”
見れば、その狼の背中には、彼女が乗せられて、此方へ運ばれてくる。
「F、Freya…どうしたんだい?」
「Tu ești cel care m-ai rugat să-ți spun dacă mi-e frig.」
「え……?」
“盗聴も、盗視も、四肢の剥奪も…ああ、結構だとも。”
“それでも俺達には敵わぬと教えてやろうぞ。”
“Teus、お前は今から兄弟暗号によって、Freyaと他愛のない会話をして貰う。”
“その会話の中に、ひっそりと答えを紛れ込ませて欲しいのだ。”