212. 予言により 2
212. As Foretold 2
「…ああ、まあ良い。分かっている。」
逃げ場はもう、何処にも残されていない。
まさか、こんなことにはならないだろうとか思っていた。
漠然と、最悪の事態は逃れられるだろうと、楽観的だった。
余りにも、そうなった時のことを考えると恐ろしくて。
いざ直面して、完全に射竦められてしまった。
どうしようもない。
終わった、もう駄目だ。
頭が真っ白になってしまって、
時間切れを迎え、ただ解答欄の余白の微妙なシミからじっと目を逸らさず、
どうしよう、どうしようと喚きながら、がたがた震えて狼狽えている。
そんな俺とは、大違いだ。
模範的な応対は、まさにFenrirが第14問目を卒なく躱した切り口と同じだった。
彼は沈黙を作らぬよう、努めてわざとらしい抑揚を伴って続ける。
「言うなれば、高みに座する主神どのは、俺に未知なる脅威に対する意見を求めておられるのだな。」
此処までは、確かにお膳立てだ。
俺の知性を十分なまでに測り。
それを、この問題の解答を信ずるに値するかの論拠としたがったとは。
全く、気が付かなかった。踊らされていたどころか、試されていようとは。
しかし俺がこの問題にまで至れたということは、一応及第点を頂けたのだろうと思っているよ。
貴方様の耳に届けても差し支えない進言ができる知性を見出して貰えた訳だ。
実に、光栄なことだね。
「だから、大真面目に考えて、答えて差し上げるとしようじゃないか。」
「なあ、そうだろう?Teus。」
「…でなければ、こんなもの、与太話にすらならん。」
ぼそりと、俺の背後に向って不満を垂れるのを忘れない。
「おい、聞いているのか?Teus。」
「……。」
「Skaっ!お前いつまで寝ているつもりだ!?良い加減目を醒ませっ!!」
「……?」
え…?
口を半開きにして、両目に涙を滲ませ、放心状態だった俺は、恐る恐る彼のことを見上げた。
身体をびくりとさせるまでは行かなかったが、余りにも唐突だった。
どうして?と思ったが、彼は不運にも、痺れを切らしたFenrirの流れ弾に当てられてしまったらしい。
“貴様…随分偉くなったものだな…”
しかし、館内に響き渡る一喝にも拘わらず、Skaは全く以て反応を示さない。
唸り声を上げて席を立つ大狼の影に、
他の狼たちが、不安そうに耳を垂れ下げる始末だ。
“主人が困り果てている時に、何という為体だ…?”
「S…Ska…?Fenrirが呼んでるよ…?」
物凄い形相で此方に詰め寄って来るので、流石に俺も、Skaの首元の毛皮を擽って、起こしてやろうと試みる。
どうしたんだろう。いつもは尻尾を弱々しく揺らして、薄っすら目を開くのに。
軽く揺すっても頑として起きない。今日は相当深い眠りに落ちてしまっているらしい。
「駄目だ、Fenrir…寝させといてあげよう…?」
「いいや、ならん。こいつには起きておいて貰わないと困るのだっ…!」
「ええい、止むを得ん…」
Fenrirは俺とSkaを見降ろし、一瞬何かを躊躇う素振りを見せたが、
僅かに口を噤んで、諦めたように目を伏せた。
その微妙な所作、
コードスイッチング(言語間の切り替え)であると分かるのは、俺ぐらいだろうと自負している。
人間と狼の境界線を、自由に行き来する彼が示す、ちょっとした癖のようなものだった。
“スゥ……”
Fenrirは、鼻先を天上に向けてすっと逸らしたのだ。
“アウォォォォォーーーーー……”
「わぁっ……」
思わず、感嘆の溜息が漏れた。
初めの一匹であったにも拘わらず、それは林間の木霊のように、神秘的な反響を示したからだ。
彼は、洞穴の中で遠吠えを見せてくれたことが無かったけれど。
今ので分かった。狼たちは、空を見上げて吠えているのではない。
仰け反る姿勢が、声を張り上げるのに適していてそうしているんだ。
久しぶりに、狼について、新しい発見が出来た。
ずっと忙しくて、ばたばたしていたからだろうか、心に余裕が無かったのだと思う。
そしてそれが途轍もなく、自分の衰えを示す欠如である気がして、ずきりと心が痛んだ。
“ウオォォォォォーーーーーー……”
“アウゥゥォー……オォォォーーー……”
他の狼たちは、次々に応えていく。
それはいたって自然な反応で、それがFenrirであろうと、別の大狼であろうと、
それが群れ仲間の一匹によって始まったのなら、何の関係も無かったのだ。
突如始まった大合唱。
時間帯で言えば、日没に近いのだから、きっと誰もがそんな気分でうずうずしていたに違いない。
ひょっとすると、彼らの耳には、図書館の外で過ごすことを選んだ狼たちの飛び入り参加までもが聞こえているのかも。
…けれど、その中に、群れの長は不参加だった。
「お前、いつからそんなに太々しくなりやがった…?」
死んだように、眠っている。
本当に、どうしちゃったんだろう?
「ったく…もう良い…」
「Teus、お前が起こせ。」
「えっ…俺?」
無理だよ、さっきも声かけてみたけど、全然反応してくれない。
ひょっとしたら、具合悪いのかも…
「その首元にぶら下げてある狼笛は飾りか?」
マントの中に仕舞い込んでいるんだろう?
そいつなら、流石にこいつも目を醒ますだろう。
「こ、これかい…?」
どきっとしてしまった。
未練がましく身に着けていたの、どうして知っていたんだろう?
あの時以来、使ったことが無かったから。
俺自身でさえ、忘れてしまっていた。
「それで起きなかったら、引っぱ叩いてやる。」
「や、やめてあげなよ…」
「そんなに言うんなら、一応やるけど…」
余り期待しないでね?
確かこれ、失敗作だから、あんまり音鳴らなかった気がする。
覚えてるでしょ、Fenrirも?
「スゥ……」
別に俺は、天を仰がなくて良い。
かえって気道が締まって、上手く声が出せないと思うから。
代わりに、出だしの一匹になってみたつもりで、できるだけ優しく吹いた。
「ヒューーーーーーーー……」
…前よりも音の出が悪くなっている気がする。
これ、なんか中に詰まってない?
そう思った直後だった。
“っ……!?……!?…!?”
「うばっ…!?」
顎に強烈な掌底を喰らい、目の前に毛皮の雄山が現れたのだ。
唇に笛が直撃し、痛みに思わず呻き声を上げる。
「いっでぇ……」
「ようやく目を醒ましたか…寝坊助は、飼い主に似たのか?」
“……?”
Skaは辺りをきょろきょろと見渡している。
Fenrirの嫌味は、どうやら耳にまだ届いていないようで、
代わりに寝ぼけ眼で俺の臭いをすんすんと嗅ぐ。
“おいSkaっ!!何故今の今まで眠り惚けていた……!!”
“ちょうろう…様…?”
“……っ”
Fenrirはぎょっと眼を見開き、わざとらしく溜息を吐いてそっぽを向く。
「はぁ……」
「Teusが泣くぞ。ったく……」
「Ska…なんて言ったの?」
「知るか。こいつの寝言なんぞ…」
Fenrirは緩々と首を振り、気怠そうな足取りで席に戻って行ってしまった。
「お前…半分、歳を取って良かったな。」
「は、はあ…?」
何が何だか、全然分からないけれど。
「…おはよう、Ska。」




