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【続編連載中】Wolfhound(ウルフハウンド) ー神話に殺された狼のやりなおし  作者: 灰皮 (Haigawa Lobo)
第1章 ー 大狼の目覚め編
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3.掠れ吠え

3.Howling Hoarsely


覚醒すると、目の前には、いつもの景色があった。

「…夢、か…。」


洞穴の外はまだ薄暗い。日が昇るにはまだ少し時間があった。

寝つきが悪く、早く起き過ぎてしまったらしい。


「……。」

しばらく意識がはっきりするのを待ちながら、先までの追憶ともいえる悪夢のことを想った。

あれもまた、現実に起きたことだ。


かなり昔の話になるが、それは治らない傷となってしまっている。

もう忘れてしまいたい。それなのに俺は、何度も、何度も、僕の記憶に引き戻される。



頬が、濡れている気がした。そんなはずはない。

俺は重たい身体を起こし、洞穴の奥に横たわる巨大な動物の亡骸へ近づいた。


俺が、殺して、喰った。もう骨しか残っていない。

かつてこの森の王者だった。俺と同じような姿かたちをした、獣だった。


屈んで、その骸の牙に、自分の首筋を近づける。

鋭利な牙だ、俺のように。それで、前のようにしてくれませんか。

そして、首の傷口を思いきり牙へと突き立て、引き裂いた。


「んぐっ…、はぁ゛っ…。」


その痛みを感じたいかの如く、躊躇いは殆どなかったが、同時にその意味も薄れつつあった。

亡骸の、かつて目があった場所を見つめながら、痛みが自分はそうであることを正当化してくれるのを待ち続ける。


首筋から血がしたたり落ちるのを感じた。


まだ、頬が、濡れている気がした。そんなはずはない。

あるはずがない。



ここにいたくないと思った。泣いて、しまいそうだった。

足を引きずるようにして洞穴の外へ出る。

もう一度眠る気分にはなれなかった。少しだるかったが、まあ仕方がない。


周囲の樹海は濃霧に覆われ、眠った獣ような、侵してはならない荘厳さと、あるはずのない平穏さを伝えていた。

この森は、まだ眠っているのだ、そしてこの霧は、獣の夢。穏やかに違いない。


「吐き気が…ひどいな…。」

まだ頭の中が、はっきりしない。 

横になりたい気持ちを抑え、それで楽になるだろうと、いつものように川へ水を飲みに行くことにした。

慣れた獣道を、今日は歩いて進むことにしようか。小一時間はかかってしまうだろうが、たまには散歩を楽しむことも良かろう。


いや、洒落込まずとも歩くので精一杯だった。

近場の河原で済ませ、すぐに洞穴でぐったりとしたいぐらい、厳しい。

けれども俺は身体に鞭打って、元気だったころの獣道を変わらず歩き続けることを好んだ。




散策といっても、小鳥の囀りも、獣の息継ぎも聞こえてはこない。

まだ眠っているだろうし、そうでなくとも俺の前に現れたりなどは、しないだろう。

それがちょうど良いと思った。誰も偶然に狼と鉢合わせてはならない。

俺は邪魔されず、静かな森の寝息に耳を澄ませていられるだろう。





長い道のりのうちに、嫌でも思考は、あの夢へと飛んだ。


どうしてあんな夢ばかりを追体験させられ続けるのだろう。

始めは理不尽だとさえ思えた。夢の中ぐらい、良い思いをさせてくれても、と。


俺はまだ、父と母の愛情を一心に受け、他の子供たちとたわいもない遊びに興じることに一生懸命で、そして誰からも、俺が嫌われている理由を考えさせられずに済むような日々を。


数年経った今になって思うのは、せめて別世界では幸せでありたいと願うことが、現状に抵抗する気力もなく、苦しいと漏らし続けるより遥かに、苦しいということだ。





長い道のりだった。

ここが、気に入ってよく訪れる川。

なかなかに良い景色を四季に応じて見せてくれる場所だった。


「雪も、だいぶ溶けて泥濘るむな…。」

立春の時である今、木々がその息吹に命を吹き込まれていく。

辺りの草々や、川の水面さえも活気を取り戻してく様子が鈍感な自分にさえわかった。


決まってそれに混ざるのは、羨ましい、といったような。

素直に喜べばよいものを、森の再生、復興を、ある種の憂いをもって眺めていた。

こんな乾いて、干からびた眼をしているから、こんな風にしか見られないのかもしれないな。




そうした訳で、当然俺は冬の方が好ましかった。

たとえ彼らが希望をもって、極寒の冬を耐え抜いているのだという相違はあっても、寂しい枯れ木に、なんとなく親近感を覚えるのだ。



だが、狼が粛清されるこんな平和な世界で、冬は当然のように短い。




…目がひりついて痛い。眠れていないのだ。

辺りを注意深く確認し、周囲に誰もいないことを確認すると、ゆっくりと入水する。

浅瀬ならば、腹までは浸からない深さだ。


口の中へ水を運び、なんとか飲み込む。

春の水はまだ冷たい、しかし冬ほどの厳しさはもう残っていない。


「ふぅ…。」

ようやく意識がはっきりし、身体が覚醒する。


顔を上げて長い息を吐きだすと、はるか遠い上流をぼんやりと眺めた。

それは絵画のように遠近感を失っていて、心地の良い川のせせらぎだけが聞こえてくる。


こうしていると、この森の中にいるのは自分一匹であるかのように感じるのだ。

勿論、他の多くの動物たちが息づいているのだからそれは誤っているが、孤独である、という意味ではあながち幻想に過ぎないとも言えない。

一匹ではないだろうに、この場面には自分だけが切り取られて、それが永遠である気がした。





それは、心が休まるようでむしろ複雑だ。

水面に映る、一匹の獣。揺らぐ像もまた一匹、と数えたものか。





その顔は、いかにも悲哀そうな面持ちで俺を見つめていた。

眼はひどく充血していて、腫れぼったい。


そんな眼をしているから、希望も何も、見出せないのだぞと、助言してやる。



突如として、水面が一滴の雫で乱される。

「あぁ…。」

途端に像は崩れて見えなくなってしまった。

もっとそいつの顔から欠点を見つけてやるつもりでいたのに。



雨、だろうか。運が悪いな、俺は。

乱れた獣の顔がやがて元に戻ったかと思うと、またも一滴の雫がこぼれ落ちる。

今度は落ちていく様を眼で追うことが出来た。


そのときの顔と言ったら無かった。打ちひしがれ、半開きになった口で、まるで大好物が消えてなくなってしまった子供のように絶望していた。


今度の水面は、なかなか元に戻らない。

何故だろう。

…。




堪えきれず、川の中へ潜り込んだ。

首の傷口に、冷たい水が沁みる。痛かった、辛かった、苦しかった。

このまま、死にたい。溺れて、楽になりたい。





本気でそうしようかと思った。



「……!?」

その刹那、耳が動物の動きを察知する。

対岸からだ。

誰かが来る、こんな時間に?まさか…。


運が悪いな、俺は、本当に。



俺は急いで川から上がると、ぶるっと身震いして毛皮から水を吹き飛ばした。


ふらふらした足取りで帰り道を歩く。

逃げよう、できるだけ森の奥へ。

川を渡ってくることは決してないはずだから、きっと此処まではやって来ない。



「はぁっ…はぁっ…」

いわゆる捕食者である俺が、こうして姿を晦まさなくてはならない相手。


彼らもまた捕食者であるが、俺を喰うようなことはしないだろう。

もっと酷い目に遭わされることも、あるやかもしれないが。




この川の向こう岸には、ヒトの姿をした、人間でない生き物がいる。

“神様”だ。


この川が境界線だ、それが暗黙の了解。

互いに、それ以上の干渉はしない。


俺の住む洞穴が、この川からあれだけ遠いのも、そんなことに依る。

俺が生かされている領域は、この川よりも、こちら側の森。外へ出ることはできない。



まあ、人間と野生の肉食動物、そんな関係だと思ってくれれば良い。

ただ、少し事情が異なる点を除けば。









折角だ、少しばかり無理をしようかな。


帰路に立ち寄りたい場所があったのだ。



「…ここだ。」


上流に向かって脇道に逸れた先に、この樹海を見渡せる形で隆起した崖がある。

一望した起伏のうちの、どこまで俺は走って行けるだろうか。今でさえ、そう胸を躍るほどに、景色は壮観だ。


昔はよく此処で狼であることを誇り、仲間の狼を思い浮かべて、唄を夜空に響かせたものだなあ。

聞こえていただろうか、果たして。




今は視界をひどく遮られ、濃霧が静かに滑っているのだけが見える。

夢を形にするとしたら、あんなふうになるのだろう。


空はうっすらと青い。いや、青と呼ぶには薄すぎて、明るいとも暗いともとれた。

その中を二日月が、今にも消えそうに浮いていた。



目を瞑り、風を感じる。

目を見開き、今度こそはできると恐れを振り切り決意する。



息を胸いっぱいに吸い込み、仰け反って顔を空に上げる。

首の傷口が剥き出しになった。





遠吠えだ。



俺は、”狼”だ。



ここは、神様の住む世界。

一説によれば、人間を造りたもうた。


ここは、全知全能の神が造りし世界。

狼を造った覚えは、生憎ないそうだ。


首の傷口が開き、そこから血が流れだす。

あまりの痛みに、声すら出ない。

いつからか、

俺は遠吠えが出来なくなっていた。


涙がこぼれ、傷口に沁みていく。

血とともに、胸の毛皮を濡らしていく。


最早泣いていることを否定もできまい。

それぐらい、痛かったのだ。


「…。」

 俺が、狼だからだ。


こんなところで惨めに泣いているのも。

神様に、怯えて生きるのも。

…もうすぐ、死ぬのも。


月は跡形も無く消えて、見えなくなっていた。


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