211. ヴァフズルーズニルの歌 3
211. Vafthruthnir’s Sayings 3
「どんな問題が出るのかは、俺も分からないんだ。」
Teusはマントの中から、一冊の書物を取り出すと、閲覧席の長机に置いた。
「……?」
重々しく装丁されている革表紙には、その題名が刻まれていない。
見覚えがあった。
何処かで、お前を読んだか?
そうだ。いつのことだったか、ある筈の無い景色の片隅に。
ヴァルハラ。主神の住まう宮殿の、その庭の日陰に、墓標の様にして、その半身を埋められていたものだ。
そんな記憶は、無かった。
だが、俺の一生の何倍も分厚く思えるこの書物が、確かに記憶の流れのある一点に居合わせている。
そう、錯覚させられている。
名の無い本など、図書館には、存在しないはずだった。
俺はもう殆ど、この塔に住み着いた魔物でありながら、全ての書物の名を覚えている訳では無いが。
それでも、そのようなものが、存在してはならないことぐらいは知っていたのだ。
名前を持たぬ本は、読まれない。
此処を訪れる者に、探されない。
お前は此処にあっては、ならぬものだ。
「開いてくれ。」
「……。」
「そうしたら、そのまま中身を見ないで、俺に渡して。」
「…こうか?」
一瞬、躊躇した。
扉を開いた途端に飛び込んで来るであろう、物語の書き出しが、
自分の頭の中に流れ込み、世界を変えていくのが怖かった。
それが好きで、尻尾をゆらゆらと揺らしていたのに。
脳天を揺さぶられるのを、初めて億劫だと感じた。
恐らくこれは、目を細めて読み聞かされる類のそれではないと、直感が呼びかけている。
だから、俺がそれを読む必要が無いと諭されて初めて、爪先で表紙を捲る勇気が湧いた。
「そう、ありがとう。俺が開いても、白紙のままだからね。」
「…どういうことだ?」
「分からない。俺が君に加担しないように、ってことじゃないかな。」
「お前が…俺に?」
「予めのカンニングは、許されていないって意味さ。」
要領を得なかった。
その本に記されているものを、Teusが先に読むことが許されていない理由が、俺に予めの助言を与えない為であるなら、何故今その書物を俺の眼の前から取り上げた?
「そういうものさ。飽くまで、中立の立場を要求されているというだけ。」
その言葉が、もう俺たちの構図を露呈させてしまっているんだよ。
中立なんてものは、相対する二人の間にしか生まれない。
「俺が今から、試験官になる。」
これは、俺と神々の間の闘い。
何らかの再現としての、知恵比べを持ち掛けられている。
「幾つか、この本に書かれている事柄について、質問をするから。それに答えて欲しい。」
彼は長机の、一番端に座って、手にしていた書物の背を此方に向けて広げた。
「どうぞ、座って。」
「……。」
「解答は、君に代わって、俺がこの本の白紙に記す。」
…不自然極まりない。
この試験は、俺一匹で、滞りなく完結する。
彼らが、飽くまで対話の構図を保たせようとしている理由を、推し量ることが出来なかった。
対話形式によって、即応性とでも言うべきか、筋道を立てた論述に、瞬発力を見出そうとしているのか。
それでも代筆は、公正明大に欠ける行為だ。
「お前が俺の喋った通りに綴る保証が、一体何処にある?」
「言っただろう?俺は中立の立場だ。どちらの不利になるようなこともしない…」
「それは、誓約文を読み上げているだけか?」
「…お願いだ、信用してくれ。でないと始まらない。」
「質問の答えに、なっていないぞ!」
“……。”
声を荒げたせいで、何匹かの狼が驚いて頭を擡げる。
再び静まり返った館内に、雨音がもっと強く打って響けと願うほどだ。
「くそっ……」
俺はTeusの対極にあった椅子を咥えて転がすと、荒々しく鼻を鳴らして腹ばいになった。
「その退屈でくだらない物語の書き出しに、こう記しておけ。」
「知能テストのようなものをさせられて、甚だ不快だ、とな。」
記憶力を試され、規則性を見抜く知力を試され。
凡才を見抜かれるのが、数値化されるのが、飽くまで俺を枠組みの内に捉えようとするのが。
一般常識を試されるのが、一番癪に障るのだ。
しかし、取り乱す様なことがあってはならない。
そのような問いの内の、どの一つも、今のところは俺の能力の欠陥を見出す重要な問いでは無い。
何か、致命的な一問を、混ぜ込んでくる。
そういうことだな?
“おい、Ska…受付に置いてあるインク壺を持って来い!”
“は、はい…!”
気が立っている俺に口答えをしてはならないことを、この賢狼はよく知っている。
きちんと、傍らに転がっていたペンも咥えて来ることも忘れない気配りだ。
“俺の所に持って来てどうする?お前のご主人様に渡して来い!”
“ひぇっ…すみませn…”
「Fenrirっ!!」
「お前が自分で持ってこないのが悪いんだろうが!」
「ああ、もう…分かったよ!ごめんね、Ska…ありがとう。」
“い、いえ…すみません。気が利かなくって…”
“ったく…”
…だが、これではっきりした。
Teusは、此方の味方だ。