211. ヴァフズルーズニルの歌 2
211. Vafthruthnir’s Sayings 2
「早く早く…皆急いでっ…!」
久しぶりに走ってみると、と言ってもほんの小走りだが、もうそれだけで息が上がってしまった。
思えば急激な老化が始まってから、まともに全身を使う動きをしていない。
衰えた筋肉量を補う左半身の武具が、生身の肉体とアンバランスに地面を蹴り、
あまりのぎこちなさに、ちょっとした段差で転びそうになる。
制御の済んでいない人造人間にでもなった気分だった。
そうして気づけば最後尾に立たされていた俺は、
フードが外れないよう押さえ付け、ひいひい言いながら神立魔法図書館の入り口に向って猛進していたのだった。
「うわっ…すっごい勢いで降って来てる…!!」
予想されていたことだが、遂に堪え切れず、激しい豪雨に見舞われてしまった。
ほんの数秒差だったのに…全身を包むマントがぐっしょりと濡れて身体が重い。
振り返れば、景色は幾筋もの雨粒によって、陰鬱な廃墟街へと様変わりしていた。
これはどうしようも無いな。雨漏りの心配の無い安全な家に閉じこもって、のんびりと窓の外を眺めているより他無い。
好きな風景だ。そう言ってもいられないと分かっているけれど。
それは俺が望んだ通りに、人の絶えた世界に佇む束の間の気楽さを感じさせてくれた。
パシャ、パシャ…パシャ…
子気味良く泥濘を弾く音を響かせながら、外周をぐるりと回って、Fenrirが姿を現した。
「Freyaは…?」
「もう運び入れた。」
「良かった…ありがとう。」
「Skaに言え。俺はそこまで気が回っていなかった。」
「ありがとう…二匹とも。」
Fenrirは、耳以外の一切を静止させて、じっと外の様子を窺っていた。
時折Skaがそうするように、ある一点を睨んで、人間には知覚できない何者かの動きを追っている。
「…天窓からせいぜい、覗いているが良い。」
「……?」
「さあ、入るぞ…あとは、お前だけだ。」
「う、うん…」
他の狼たちは、それぞれの寝床に籠っているのだと思いたい。
どんな気候であっても、きちんと安全な巣穴と食料を確保してあげたいと思ってしまうが。
彼らは室内犬では無いと、Fenrirに先日窘められたばかりだ。
雨が上がってからのことも、今は考えるのはよしておこう。
老朽化した建物とか、食料を補完してある倉庫への浸水とか、軋んだ身体で対処するのは本当に骨が折れてしまいそうだ。
何でも頼ってしまって申し訳ないけれど、Fenrirをヴェズーヴァに縛り付けることにならないようにしたいとだけは、思っている。
「ああ、待て…」
大扉を閉めようとする前に、Fenrirは俺の視界を覗き込むように顔を降ろして、じっと目を見つめた。
「ん?どうしたの…?」
「動くな。」
視界の外からにゅっと前脚が伸び、フードの裾に、恐る恐るといった様子で触れる。
水滴が、ぽたりと滴った。
「……。」
その慎重な所作には、並々ならぬ緊張感が漂う。
「何でもない。葉っぱがフードに、引っ付いていた。」
「あ、ありがとう…」
「毛皮の水を、俺も弾いて来る…館内に湿気は、厳禁だからな。扉を閉めるのは、少し待ってくれ。」
「うん…俺もマント、脱いだほうが良いかな…」
裏地に手を当てても、少し湿っているのが分かる。
後々冷えてきそうだけど、残念ながら…いや、当然か。この設備は火気厳禁でもあるのだ。
「大丈夫だ、そんなに濡れてない。気にしなくて良いと思うぞ。」
「そう…?じゃあ、お言葉に甘えて…Skaを抱きしめてれば、勝手に乾くだろうし。」
「ふん……」
あんまり良くないかな、と思いつつ。
素顔を君の前に晒しているのが落ち着かなくなってしまっている自分がいる。
だからさっき、Fenrirが俺の眼を覗き込んだ時、どきっとしてしまったんだ。
意識下に潜む自分を見透かす神様のように、畏敬の光をその大きな瞳に湛えていた気がしたから。
「……。」
大扉が閉まると、落ち着いた雨音が館内の寂寥とした雰囲気をより一層引き立てる。
中央へ進むと、既に避難してきた狼が大勢、先客として鎮座していると分かった。
以前の豪雨で、此処が有事の際の退避場所であることを覚えたらしい。
ぱっと見ただけで、群れの半数以上が、一晩かそれ以上を明かすことに決めたと見える。
円形の外壁に沿うようにして伸びる螺旋階段の至る所で、段差に顎を乗せ、頬の毛皮をぺたりと広げて伏せていた。
「彼らの食料について難儀しようと思うな。別に1日喰わなくたってやっていける。」
実際、狩りの合間はそれ以上の期間が空く。
自分とFreyaの心配をしていた方が身のためだが、別に外に出たら危険という程でもあるまい。
お遣いぐらいなら、Skaの代わりを買って出てやるとしよう。
「何から何まで、ありがとう…」
全くもって、今回の土砂降りを予見できていなかったのは、どうやら自分だけらしい。
群れの利便を図る立場にありながら、彼らに頼りっきりだ。
「今回の長雨は、けっこう続きそうなのかい?」
「どうしてそんなことを聞く…まるで俺には、未来が予知できるとでも言いたげだな。」
「いや、そんなんじゃないけど。野生の知恵で、見当はつくのかなって。」
「そうだな…此処を今宵の塒として選んだ狼の割合からして、明け方までは外に出られないのでは無いか?」
意味の分からない推論に、思わずそうじゃなくて。と言いたくなってしまう。
もっと、自然の声がそう告げているとか、そういった狼らしい知見が欲しかったのに。
彼は俺でも一晩考えれば出来そうな、人間らしい憶測しか齎してくれない。
「だが、それで十分だろう?」
「その、‘最終試験’ とやらを終わらせるのには、十分足りる筈だ。」
「……。」
「用意は、出来ているのだろう?」
彼は、その主張を通したいぞと、再びフードの下を覗き込む真似をする。
思わず顔を左へ背けた。
そこまでする勇気があるのなら、俺はもう、顔面を隠さなくても良いのでは無いかと思ってしまう。
「予定通り、午後からの開始で俺は構わない。」
なるべく早くに、終わらせたいのは、あいつらも俺も、同じであるのだ。
「…そうだね。」
「わかった…」
はっきりとした理由はない。
だが本音を言えば、気が進まなかった。
ただ単に、避難を余儀なくされた非日常から来る不安が、そう感じさせたのかは分からないけれど。
その時に感じた、妙な胸騒ぎは。
狼に通ずる本能的な拒絶であると思ったのだ。