206. 領界船 2
206. The Omenkneel 2
「おっけーFenrir、印付けた!もう降りてきて良いよー!」
「……。」
「……おーい、聞こえてる?どうしたの?」
「う、うむ…。分かった、今降りるぞ。」
物思いに耽りたくもなると察してくれ。
船に乗ったのは、初めてなんだ。
ちょいと、いやかなり手狭ではあるが、海上生活は人間にとってさえ窮屈だと聞くから、我慢するとしよう。
錨を降ろして停泊しているにも拘わらず、戦ぐ風は地上と全然違うのだな。
少し、荒っぽい感じがする。走っている時と同じように、毛皮が靡くのだ。
柄にもなく、俺は、自分が物語の主人公になった夢物語を想像している。
新たな世界への旅立ちだ。初めてこの森を訪れた時の様に、期待に夢を膨らませるのはいつだって楽しい。
広大な森を闊歩してきた狼が、今度は海賊に戦闘員として飼われ、大海を駆け巡るなんてどうだ。
肉ばかりの食事も、俺ならやっていけそうだ。狼が壊血病になった話など、聞いたことが無い。
一匹旅も悪くないな。寧ろそっちの方が、性に合っているか。
北岸の果てに、巨大な空中城を見た俺は、この森を捨て、海上へ漕ぎ出すことを決意する。
まだ見ぬ新大陸には、俺を受け入れてくれる心優しい出会いがあるかも知れない。
だが舳先で銅像のようにお座りをして、前方を無表情に見つめる狼の姿を見て、対岸の人間たちはどう思うだろうか。
こんなシュールな光景、見られていると想像しただけで真顔になってしまう。
はあ…本当に、何をしているんだろうか、俺は。
幾らTeusとSkaたちを助ける為とは言え、何故俺は、こんなことに身を投じなくてはならないのだろうか。
付き合っている暇が無い訳じゃないから、別に良いと言えば良いのだが。
“Fenrirさーん、ずるいですよ!僕らも早く乗せてくださーい!!”
気が付けば、視界の端に立ち並ぶ狼たちの視線が痛い。
なんだか夢も醒めてしまった。おまけに胸の辺りがむかむかしてきたし、もう降りるか。
「どうだった?乗り心地は?」
「…これが、船酔いか。」
恐る恐るTeusが佇む対岸へ飛び移ると、そうとだけ呟いて、すぐさま俯せに臥せった。
「気持ち悪い…」
初めは何ともなかったどころか、ぷかぷかとした漂流感があんなに心地よかったのに。
段々と寝起きのような頭痛に襲われ、今となっては吐き気さえ込みあげて来る始末だ。
やっぱり、俺に海上生活は向いていない。
大人しく、地上でぐうたら横になっているとしよう。
「俺は寝るぞ…後は任せた。」
一応、これで俺の役割は達せられた筈だ。
体重測定の原理はこうだ。
まず俺がこの木造船に乗り、水面の高さで船底の板に印をつける。
船の沈んだ深さは、体重だけに依存するはずだ。
あとは、俺と等価の体重を実現するまで、番狼たちを次々船に搭乗させ、船を沈めればよい。
彼らの名簿は既に取得済みであるから、年齢と性別が分かっている狼が何匹だと報告すれば、彼らは凡その体重を見積もることが可能だろうとの算段だ。
狼を、狼何頭分だと形容するのは、本末転倒な感じが拭えなかったが。
Garmを嘗ての同胞の集合体だと捉えられたならば、強ち間違った試みでは無いのかも知れない。
問題は、此処から。
誰から乗るか?
それは、目下の死活問題と言って差し支えない。
“Teus様、此処は流石に、僕が最初に搭乗するべきですよね!?ね!?”
“何言ってるんです?…レディ・ファーストという言葉を知らないのね、貴方は。”
“いやいや、年功序列という、古の掟があってだな…”
“身勝手な大人狼たちだ、こういうのは遊ぶ盛りの子供たちから先に乗せてあげるべきじゃないのか?”
早い者勝ちであることを既に感じ取っているのか、狼たちはやや興奮気味だった。
何処かで、天秤が均衡を取り戻した所で一度止まる。定員はそこまでだ。
残りの狼たちは、残念ながら、この舞台に立ち会って眺める群衆のうちの一匹だ。
別に、この用事が済んだなら、自由に遊具として彼らに提供してやれば良い話なのだが、そんな風に説得するのは野暮であるというか、全く理に適っていない。
前狼未踏の地に、誰よりも先に脚を踏み入れたことに意味があるのだから。
誰かの足跡がついた雪原では、わくわくと弾む探求心も半減だ。冒険とは到底呼べないものになってしまう。
「うーん、どうしよう…Fenrir?」
「知るか…」
彼らの意見を聞き入れ、統率者として的確な判断を下すのがお前の仕事だ。
Skaがお前の命令に従う以上、此処に居る全員が、渋々それに倣うだろう。不服を申し立て、挙句の果てに群れを抜けたいなんて抜かす奴は、万に一匹もいないだろうさ。
「一応、模範解答を助言をしてやるとすれば、体格の大きいものから乗せてやるべきではあるな。」
この船を巨大な秤であると捉えることは、案外的を射ている。
大小さまざまな群れの狼たちは、皿の上に乗せられる分銅と言うことができるからだ。
まず大きな重りで大体の見当をつけ、それから小さい重りを乗せて微調整を行うのが正しい測定方法だろう。
「うーん、それもそうか。じゃあSka、そのように群れに周知して貰えるかい?」
「理では、人も狼も動かないと思うぞ…」
“流石はFenrirさん、話が分かりますね!”
じゃあ、やぱり僕が一番ってことですね、そう確信したと言わんばかりの表情だ。
“別に、お前に恩を売ってやってるんじゃないからな…合理的な提案をさせて貰ったまでのことだ。”
“そうですね。Fenrirさんは全くもって正しいです。”
“……。”
彼らの不平不満や恨み言は、全部お前が受け持ってくれるんだろうな。
それでも足りないなら、罪滅ぼしに、俺は当面、仔狼たちの玩具に扱き使われる羽目になる。
“船酔いには、気を付けるんだぞ…”
“へっちゃらですよ!Fenrirさんの背中に乗せて貰ってるので、慣れっこです。”
ふうん、そうなのか。
お前達は良いな、俺も仔狼の頃、Siriusの背中の上で眠りたいと夢に願ったものだ。
「それじゃあ、次…どんどん乗って行っていいよー!」
“良いものだな…”
跳ね橋をいそいそと渡り、嬉しそうに一番乗りを決め込むSkaの尻尾は高々と掲げられ、
見る者に航海に乗り出す白帆を思わせたのだった。