206. 領界船
206. The Omenkneel
「今回だけだぞ…金輪際、こんな真似はもうごめんだ。」
毛皮に触れる彼の右手を、いつもより鋭敏に感じながら、俺は釘を刺した。
「そんなこと言わずに…お世辞じゃなく、本当に助かってるんだから。」
流石は、北欧神話最高峰の賢狼ってね。
まさか、こんなにあっさりと成し遂げてしまうだなんて。
きっと稀代の天才と持て囃された誰かさんも、これには嫉妬してしまうんじゃないかな。
「とんでもない…こんな気持ち悪い体験をさせられるとは聞いていなかったぞ。」
確かに見た目にはあっけなく、滞りなく召喚の代理は完了した。
恐らく、興味津々で何故か魔法陣を描く白線の臭いを嗅ぎにやってくる狼たちを追い払うことに多くの労力を割いていたかと思う。
まあ、空から豪華客船が降って来るぞと幾ら怖いうなり声で警告しても、理解してくれと言う方が無理だがな。
それからは気が付けば、いつもそう形容するしかない程の、ほんの瞬きの隙間を縫って、
次の瞬間には観測者の眼を逃れ、Teusが用意してくれた客船は円陣の中央で座礁していたのだ。
思っていたよりは、質素なつくりをしている。
煌びやかな装飾も無ければ、海賊船のような帆も無い。
どちらかと言えば漂流する方舟と呼ぶのが相応しかった。
全身の内の殆どは水中に隠れてしまうので、陸上では殊更に大きく見えるのだろうが。
それを差し引いても、息を飲むほど、狼たちが尻尾を振るのを忘れて見とれるほど、大きい。
桁外れに巨大な木造船は、果たしてヴァン川に収まり切るのだろうかと心配になるほどだ。
組み立てるのには、雑木林が一つまるごと犠牲になったことだろう。
本気で俺を乗せて海上に漕ぎ出すつもりだったのか。
こいつはいつだって、大それた計画を実行に移すのだけは得意なのだと思い知らされる。
「もし良かったら、どんな感じだったか聞かせてくれない?」
Teusはフードの鍔を持ち上げて巨船を仰ぎ、そのように尋ねた。
「興味本位で聞いて申し訳ないけど、俺はそんな不快感を覚えたことが無かったから。」
「…お前の身体の一部が、勝手に俺の中で蠢くような感覚だったぞ。」
縁起の悪い喩えだが、消化の悪い喰い物が、腹の中に溜まっているような気持ち悪さだ。
てっきり俺が、お前の想像した頭の中の世界に前脚を突っ込み、川の水を搔き乱すような感じで探し当てるのかと思っていたが。
全くの逆だ。
俺は胃袋の内壁で、お前の手を真っ暗闇へ突き出し、俺の中を、暗中模索させられている。
時折触れる何かに怯えながら、これかと思い当たる勘さえも培われない。
結局は、俺が触れなければ意味が無いのだから、俺の頭の中の世界を歩かなければならないのは分かるが。
お前の与り知らぬ所で、俺はお前の視点で歩かされている。そんな突飛な夢だ。
この表現は、適当か?ああ、上手く伝えられないな…
「直に慣れると思うよ。そのうち、全てを明け渡すことが出来て、自分のもののように操れる。」
「そうはなりたくないな…」
Teusは俺の戸惑いに共感してくれつつも、なるべく難しく考えないでなどと、直感的な助言をするに留まった。
「でも、ちょっと意外だったな。Siriusとの一致率は、やはり驚異的だったと見るべきだったのか…」
彼曰く、俺がSiriusの精神を己の一部として容易く受け入れたように、自分が投げ出した命の片割れを宿した俺に、奇跡的な結びつきが齎されていると期待しての提案ということだった。
脳内でTeusが能天気に喚き、俺を憤慨させるまでは行かずとも、代理で奇跡を唱えるぐらい、訳ない筈だと考えていたのだ。
「そんなに、俺が君の中に巣食うの嫌?」
「ああ、とっとと出ていけ。」
「えー、そんな言いぐさは無いだろ!これでも立派にFenrirの命を繋ぎ止めているはずなんだ。」
「言い方が悪かったな…出来ることなら、今のお前に返してやりたいんだよ。」
念のために断っておくが、お前は一つ、大きな勘違いをしている。
俺は、お前たちが行使する奇跡を、自分も同じように扱ってみたいとは思っていない。
寧ろ、その厄介となることを、心の底では恥じている。
俺は、神様なんかじゃないから。
「そう、かな…?」
Teusは半笑いで返しかけたが、すぐに首を振って撤回する。
「いや、そうだね。君は君自身が認めるように、狼であるから。」
思い出して欲しい。お前と出会ってからというもの、一貫して俺はお前を困らせて来た。
衰弱しきって、手遅れかに思われる淵でさえ、俺はお前に看病されることを拒んだのだ。
Freyaに祝福の涙だって、零して欲しく無かった。
頑としてヴァン川の領界を超えることを自らに許さなかったのだってそうだ。
お前は、途方もないほどの書物を子供部屋の思い出と共に齎してくれたけれど。
それは俺に、あの奇跡を起こさせる為なんかじゃなかった。
信じて欲しい。
俺は、お前を自らの術で ‘追放’ する為に、神の軌跡を読み漁ったんじゃない。
こそこそと隠れて、全幅の信頼を置いてくれたお前を騙している。後ろめたい気持ちでいっぱいだった。
だが、あの瞬間がいつかやって来ると…俺には分かっていたから。
もう二度と、使わないと心に誓ったのだ。
今回は、群れの胃袋がかかっていることだしな。やむを得ないと思っている。
しかし飽くまで、お前の命による、代理呪文だ。
今後、俺自身の意志で、神域に触れるような真似は決してしないと、此処で約束する。
偉大なる神様の、そのご隠居よ。
どうか、とんだ罰当たりだと罵ってくれ。
それが出来ないのなら。
少なくとも俺が、この御業を会得してしまったことを、後ろめたく思って欲しい。
「それで……この座礁船を、どうやってヴァン川へ押し込むんだ…?」
「Fenrirならいけるよ、木製だから見た目の割に軽いし。」
「……。」
魔法陣を、水上で描けるように、改良しなくてはならないな。
いや、今度から、真冬に召喚の儀を催すとしよう。
薄氷の上なら、そのまま崩落して、都合が良いからな。