203. 途方もない理想
203. Tremendous Ideal
その場では、返事が出来なかった。
答えはもう、頭の中に輪郭を為していて。
あとは口にするだけ、その一息に、
既の所で、怖気づいてしまうだなんて。
少し、考えさせてほしい。
一日だけで良いから。
俺を一匹にして。
明星に、答えの是非に関わらず、姿を現すと約束する。
そう言い残して、尻尾を巻いて、逃げ帰って来た。
それも、全速力でだ。
「ハァッ…ハァッ…アァッ…」
何も考えられなくなるくらい、頭を真っ白にしたかったのだ。
今まで生きて来た記憶の一切を失って、本能だけを纏って、もう一度考え直したい。
愚かにもそうできると思い込んでいた。
貴方を夢中で追いかけている間だけは、俺は完璧に限りなく近づけていて、
俺を立ち止まらせようとするどんな辛いことも、置き去りにして、思い出さずにいられたから。
けれど、腹の膨れた俺の脚は遅かった。
後悔は遅れて薄れるどころか、益々渦巻いて募るばかりだ。
ただいま、戻りました。
いつも帰って来ると、誰かが迎えてくれるでも無いのに、そう心の中でつぶやいたものだ。
別に、おかしくなんか無いだろう。
俺の隣には、いつだって貴方がいたのですから。
おかえり、なんて、聞こえなくても良い。
貴方に話しかけて、狼として今日も一日頑張ったと報告して、
それだけで良かった。
でも、でも今日だけは。今だけは。
Sirius、貴方の声が聞きたい。
「あ゛ぁっ…あ゛っ…うぅっ…あぁ……」
二度と潜り込めない我が家の前に臥せって、前脚の間に鼻先を埋める。
あんな風に誘われて、死ぬほど嬉しかったのに。
笑顔で、応えたかったのに。
きっとTeusも、受け入れてくれると信じてくれていた。
でも俺は、それを平然と、裏切ったのだ。
Sirius。
貴方が私なら、
いいや、私が貴方なら、きっと胸を張れたでしょう。
それはまるで、Garmが目指した、願いとは逆だ。
彼は、狼たちを再び開放する為に、ヴァン川を越えようと戦った。
俺は、俺の憧れによって、ヴァン川を越えるのではない。
狼の群れを再び護る為に、立ち上がろうとする。
「で、でも俺では…俺では、貴方の代わりには、なれないんだぁ…!!」
貴方が群れ仲間たちに与えて来た繁栄を、
狩りへの喜びを、
遠吠えの合唱を、
俺は、彼らに齎すことは出来ない。
群れの一匹とすら、なれない。
そうなれたとして、きっとまた、追放を言い渡される。
俺には、彼らに迎えられる理由が、何一つだって無いのだ。
また一匹狼に逆戻りで、今度こそ死出の旅路を整える。
どうしても、その踏ん切りがつかない。
故郷を捨てるように、
父さんと母さんを、忘れたことにするように。
どうしても、どうしても俺は、
愛おしい嘗ての寝床を捨て、
貴方の亡骸を、置いて行くなんて。
‘境界を、超えさせて見せる。’
俺の友達が志した理想が、あまりにも眩しくて。
まさか彼が思った通りになってしまいそうで。
「うあ゛あ゛ああっっ……あぁっ……うあぁぁっ……」
さようならを、言えなくて。
唯々怖くて、一匹ぼっちの仔狼のように、
震えてめそめそと泣いていた。
まだ、間に合うのだろうか。
今から走って、大急ぎでTeusの元へ戻って。
自分から仰向けになって、腹の毛皮を晒して。
ごめんなさい。ごめんなさいって、謝ったなら。
こんな酷いことをした俺は、許されるのか?
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Fenrir。
俺たちが初めて、ヴェズーヴァに辿り着いた時のこと、覚えてる?
あの時は、本当に迷惑をかけたね。
君がいなかったら、俺はあっさりと旅の途中で命を落としていたに違いないよ。
ちょうど、夏らしい気候が訪れる、昨年の今頃だった。
今となっては、見慣れた街並みだけど、
自分たちだけが闊歩する、非日常的な世界の存在に、俺もFenrirも心の底からわくわくしたよね。
人間の営みは完全に絶え、それ故君はヴェズーヴァの街並みを、恐れずに済んだ。
嘗て暮らした、アースガルズの記憶に浸りつつも、目の前の景色に没頭できた。
俺もまた、森の中で人間から離れて暮らすことの厳しさから逃れつつ、
やはり生ぬるい快適さに、甘えていたんだ。
あんなに楽しい日々は、これまで無かった。
今、それが手元にあるとはとても実感できない。
Fenrirが、人間の暮らす世界を探索しては、目を見開いて驚嘆するのが、堪らなく嬉しかった。
一緒になぞって、体験できて、幸せだった。
……今となっては、苦々しくもあるのだけれどね。
君が、少しずつ、人間の世界に慣れてくれたら。
此方側の世界に戻って来られるなどと。
本気で夢を見て、
あの時は、Fenrirに、もう一度人間と暮らして欲しかったんだ。
…思いもしなかった。
まさか俺が、本当にその土地の統治者になるだなんてね。
君は、何処までも聡明で、実はこんな結末も、薄々見通していたのだろうか。
少なくとも、ヴァナヘイムとヴェズーヴァの秘密を解き明かそうとする中で。
君は直感的に、自分と俺の関係が、世界にとって仇為すと予感していたのだと思う。
ああ、覚えているよ。
その時、俺は勇気を出して、誘ったんだ。
もし、どちらかの命が狙われるようなことになって。
皆が、自分たちのことを嫌って、追い出すような世界が訪れたなら。
「その時は…一緒に暮らさないか?此処で。」
こんな僻境の地まで、狼と裏切り者を追い回したりなんかしないだろう?
誰にも迷惑なんてかからない。誰かを傷つけることに怯えたりなんかしなくて良い。
だからずっと、Vesuvaにいよう。どちらかの命が潰えるその時まで。
“その時までに…Fenrirに聞かせてあげられるような歌を覚えておくから。”
“Teus…。それは、間違っている。”
君は目を真っ赤にして、おろおろと首を振った。
“もし、そうしていたなら…あいつはただ一人の友達と、最期まで一緒にいたはずなのだ…。”
“…?”
“あいつは…ずっと一匹で、俺のことを…待っていた…。”
“どういう…ことだ…?”
“一匹で…死ぬのを…待っていたのだあ…。”
“……。”
彼の中で、自分たちが過去の惨劇を追体験させられているような錯覚に陥っているのだとは、窺い知ることはできたけど。
それがSiriusのことを指していたのだと、当時は知る由も無かった。
それだけ抗い難い、強力な運命に引き寄せられている感覚は拭えなかった。
もしかすると、俺は彼の言う通り、Fenrirを一匹で死なせてしまうのかも知れない。
そういう筋書きに、なっているのかもしれない。
俺とFenrirの物語は、自分の力で紡ぐことはできないのだろうか?
この物語の結末は、変えられないのか?
「それでも良いさ。」
変えて見せるさ、などと恰好の良い台詞はとても吐けなかった。
「きっと、俺が先立つだけ。」
「でもFenrirは、優しく俺のこと看取ってくれるだろ?」
「そして、俺のことを思い返しながら、残りの生を生きてくれるだろ?」
予言された壊滅なんか信じて怯えるのはこれぐらいにしよう。
お腹空いただろ?あんな下手な料理なら、いくらでも作ってあげるからさ。
「おかえり。」
「待ってたよ。」
結局、あんまり上手になっていないけれど。
焦げているところは、俺に分けてくれるよね。
ヴェズーヴァを発つ前、
最後の帰り道、俺はお隣の家に起きた不思議なことに気が付いた。
“ねえねえ、Fenrir。なんかこの家から甘い匂いしない?”
“うん…? この空き家からか?”
窓も扉も壊れた、初めて訪れたときから何も変わらない小屋だった。
“そう、ケーキを焼いたような…。食べた時の匂い、覚えてるだろ?”
彼の嗅覚なら、俺よりも正確に何かを語ってくれると思ったのだ。
彼は髭をゆらして鼻をひくひくと動かすと、やがて柔らかく微笑んでこう言った。
“お前は…良い鼻を持っているな。”
“えへへ、そうかな。”
狼に褒められたのだから、きっと本物に違いない。
「ごめんね、遅くなっちゃった。……誕生日プレゼント。」