201. 予期せぬ助力
201. Unlikely Aid
洞穴の中には、自分なりにお気に入りのスペースがあったものだ。
俺でも広々と寛ぐことが叶う巣穴など、この森広しと言えども、そうそう用意されているものではない。
気分に合わせて、丸くなる凹みを選ぶ贅沢さえ許された洞穴は、まさにSiriusが俺に残してくれた遺産と言って良かった。
決してお気に入りのスポットを拵えてはならない。
日の光に怯えるように、入り口から離れて横になり、惨めに喘いで震えるのが、Teusが来るまでの日課だった。
それでいて、すぐさま外の世界へ這い出ることが叶うよう、最奥に藁を敷いてはならなかったのだ。
悪夢はいつだって息を潜め、俺を洞穴の中に閉じ込めてしまおうと狙っているから。
思い返すと、幼少期を過ごした子供部屋と同じか、それ以上に優しい記憶が詰まった場所だったのだ。
喪失感は墓前へと姿を変え、俺にただこうやって、首を垂れさせる。
昼寝に最適だった一枚岩の台座さえも、吹き飛んでしまった。
今はこうして繁茂する芝生に凹みを作り、毛皮に染み入る雨でもなければ、そこから動かずにいたいと惰眠を貪るほか無かったのだった。
一匹の狼として、あるまじき為体だった。
室内犬じゃあるまいし、野宿だとか、俺は本来そういう概念を持たないのだが。
恥ずべきことに、上手く眠れない日々が続いている。
大樹の陰に寄り添って、涼しげな風が毛皮を撫でるのも悪くは無いが、
やはり夏の日差しを遮る、あの冷たい岩肌が懐かしい。
今日辺りには、夜通しの雨が降り頻ることだろう。松の屋根では、幾らかの雨漏りを覚悟するより無い。
甘ったれたことだ。どれだけ土砂降りの大雨であろうとも、洞穴から出さえしなければ、ずぶ濡れになることが無いあの安心感が恋しい。
俺はやはり、閉じ込められていることに慣れていた。
窓の外を。別世界のような面持ちでぼんやりと眺めているのが、好きだったのだ。
しかし、何よりも失いたく無かったのは。
Sirius。貴方が傍で眠ってくれている、という慰めだったのです。
言うなれば、私を辛うじて、群れの一匹としてくれた。あの亡骸が。
洞穴を崩落させてしまったこと、今となっては酷く後悔している。
けれどあの時は、後先を考える必要が無かったのです。
もうこの世界で、目を醒ますことは無いと考えていたから。
「……。」
もうちょっと、もうちょっとだけ意識を失っていたい。
ずっとこの調子だ。しっかり休んだ感覚が持てない。
俺も到頭、新たな寝床を探さなくてはならないのだろうか。
嫌だ、此処から、離れたくない。
この森中探し回ったのだ、この洞穴以外に、安寧の場所は無い。
それに、この森に生かされている狼が、今与えられている以上を求めるなど、もっての他なのだ。
けれど、俺がもし。
もし自らに与えた拘束を、忘れることが出来たなら。
或いは、Teusが持ち掛けた提案を、受け入れてしまうのだろうか。
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暗雲垂れ込める翌日の昼下がり、再びヴァン川の畔へ赴いた俺は、直ちに対岸の異変を感じ取る。
「やけに、鴉が多いな…」
まだ雨が降るまでには、それなりの時間がある筈だった。
彼らが巣へと戻るまでの僅かな時間に、群れを成して空を飛び回る光景を目にするのはよくあることだが。
それでも日が傾き出してから集まるのが普通だ。
単に、大勢で群がって食欲を満たすだけの死肉が見つかった、と考えるのが普通だろう。
彼らの情報網は、狼に劣らぬ伝達力だ。一羽が見つけ出せば、何処からともなく湧いて来る。
しかし、問題なのは。
向こう側で、どんなご馳走が見つかったのか、だ。
「ま、まさか…!?」
脳裏でぐるぐると回り続けていた会話が、俺に最悪のシナリオを思い描かせた。
「Teusっ…!?」
俺は思わずそう口走り、浅瀬に前脚を浸して身体の動きをぴたりと止めた。
いや、あいつにもしものことがあれば、真っ先にSkaやSiriusが危篤を伝えにやってくる筈だ。
それがFreyaであっても、俺は知らせを受け取ることになるだろう。
冷静さを欠くな。
ヴェズーヴァの誰かに、不幸が訪れた訳では無いのだ。
この胸騒ぎとも言うべき第6感は、俺に別種の警鐘を鳴らしている。
“あ!Fenrirさん。こんにちは、ちょうど其方に向かおうとしていた所でした。”
“Ska…これは一体、何事だ?”
真っ先に出迎えてくれたSkaに事情を聞くと、この騒ぎはどうやら、つい数刻程前のことらしい。
狼たちの間でも瞬く間に広がり、今やヴェズーヴァは人外によって、俄かに活気づいているのだと言う。
実際、久方ぶりに石畳の街路を歩いてみると、まるで幽霊街という印象を受けなかった。
そこら中に狼の気配が蔓延り、此方を覗く視線があちこちから感じられる。
もしヴァナヘイムから遣いがやって来ようものなら、言い知れぬ恐怖に、途中で引き返してしまうことだろう。
彼らが対岸の森へ足を踏み入れられないのと、全く同じ理由だ。
その中心地で、我が友は大狼の到着を待ち続けていたのだった。
傍らには、ひざ掛けに両手を添え、車輪のついた椅子で眠る、Freyaの姿もある。
まさか、総出でお出迎えとは。余程のことがあったに違いないな。
「やあ、待っていたよ、Fenrir。思ったよりも、早かったね。」
ついさっき、Skaを遣いに出したばかりのつもりだったんだけど。
ひょっとして、年取ると時間の経過がはやくなるって話、本当だったのかな?
「…単に、お前の運が良かっただけだ。」
別れてから、たった一日しか経っていないのに。
元気そうな姿を見て、安心してしまう日が来るだなんてな。
火傷したような半身を見ても、なんとも思わなくなるのだけが、今は恐ろしい。
「それで、説明して貰おうか。」
お前は、事情を知っていそうだな。
というより、お前しか分るはずが無い。
広場に鎮座する ’これ’ は、お前の仕業で無いことだけは、確かなのだろうが。
「…これは一体、どういうことだ?」
全ての力を失った神様と、狼たち、そして烏合の衆の前には、
ルーン文字で縁取られた、巨大な金属の箱が鎮座していたのだった。