200. 借り物の翼 2
200. The Borrowed Wings 2
今日は、もうお暇させて貰うとしようと思う。
居た堪れなさに限界を感じた俺は、そう願い出てTeusに恐る恐る鼻先を近づけて触れる。
俺もお前も泣いているようじゃあ、この先立ち行けそうにはない。
次に会うときは、お互いに今日あった失態を、忘れることにしようじゃないか。
「うん…そうだね。その通りだ。」
鼻を啜りながらではあったが、Teusは俺の提案を許してくれた。
そのフード、お前の視線が上からは見えなくて、なんだか悲しいな。
今まで、どうしてそうしなかった。会話はSka無しでも円滑に進んでくれたはずだ。
勿論、自分自身と俺だけへの配慮だってことは、重々承知しているのだが。
長老を慕う狼たちも、同様に老いて尚美しい最愛の番だって、
お前の外見なんて少しも気にはしないだろうから。
「皆には?挨拶していかないの?」
「あ、ああ…」
Teusとの会話で解れかけていた身体が、一瞬にして強張る。
そうだ、Skaで思い出した。
俺の唯一の用事とは、あのバカ親に文句を垂れることだけだった。
知らぬ間に、とんだ道草を喰っていたせいで、忘れるところだった。
「いや…今日は、このまま引き下がるとしよう。」
しかし冷静になって考えてみれば、合わせる顔が無いのだと気づかされる。
俺は、自分が彼らに対して犯した罪を、一瞬でも忘れる愚行をはたらいたのだ。
思い返すだけでも、舌を噛み切りたい衝動に駆られる。
何故、歓迎するかのような遠吠えの合唱によって俺を迎えた。
俺は…お前達と一緒に、心中するつもりだったのだぞ?
いや、心中よりも酷く響いた筈だ。
対となる地獄界の狼と共に、自らを縛り上げ、永遠の微睡みに導かれる。
それで、産まれて来なかった事実を、物語の結末として記せると。
そうすることによって、Teusを救えると。
そう、悪魔のような囁きで持ち掛けて。
俺は、お前達に、命を差し出させた。
それなのに。
まるで、何事も無かったかのように。
“主よ…幸せとは、何であろうか。”
「……?」
俺は思わず、声の主がいたような気がする対岸を見た。
夏らしい風が、ヴァン川の西方より流れて来る。
“主よ。”
其方は、神様であったのだから。
考えたことがあるだろう。
幸せとは、何であろうかと。
Teusよ。
我の場合は、だ。
‘忘れられる’ ことだと、考えておる。
「忘れる…?」
どれだけ辛いことも、いつかは糧となってくれるから。
だから、死に瀕するほどの傷跡も、或いは群れとの唐突な別離も、
ちょっとした、心に響いた出来事でさえも。
なるべく鮮明に覚えていたい。
それが出来ていなかったのなら、
我は心から恥じ入り、己を責めて、地獄の淵からさえも、飛び降りてしまうであろうと。
どうして、あんなことがありながら、
目の前の飽食に、満足しようなどと考えられようか。
片時だって、我の内に巣食っているのでなれば、
我は生かされた意味が無いのだ、と。
“…そう、精神を保ち続けることさえ、我の薄弱な意志では、叶わなかった。”
主よ、考えられるか?
のうのうと忘れてしまったのだよ。
本当に楽しい、毎日であった。
この仔と一緒に、眠っている時以外は、ずっと遊んでいた。
地獄で出会えた群れ仲間たちは、我にかけがえのない幸せを与えてしもうたのだ。
“我は、幸福に、Garmであったのだ。”
まるで、あんな日が、無かったかのように暮らせたのなら。
それで惚けていようとも、
我は幸せである。
そういうことだ。
主には、少しも交わらぬ世界よ。
「……。」
番狼たちに、脈々と受け継がれた、正統なる血統。
彼らの意志とは、紛れもなくSiriusのそれだった。
…や、やっぱり、謝りに行かなきゃ。
忘れようとしている。許そうとしている。
それだけは、やっちゃいけない。
せめて、腹を見せて転がって、彼らが俺の欲求をきちんと理解し、喉元に噛みつく素振りだけでもしてくれるまでは。
その場で動いてはならないんだ。
お前達は、お前達を護ろうと抗った祖先の意志を、無為にしてはならないのだ。
俺はGarmの、大狼の夢見た復讐劇を否定しない。
「あ…あの、Teus…」
「そうだね、賢明な判断だと思うよ。」
「え…?」
「同じ意見だ。今は、行かない方が良いと思う。」
「そ、それは…何故、だ?」
「Yonahだよ。あれからだいぶ、落ち込んでいるみたいで…」
ずっと建物の隅で、病気になってしまったように、ぐったりしている。
Siriusと再会できたことが、何にも代えがたいほど嬉しかったのは事実だ。
でも夫の制止を振り切って、前世の記憶で交わった番の元へ駆けて行ったことを、
彼女自身が、一番後悔しているみたいなんだ。
Skaだって、群れを見守るので精いっぱいの筈なのに、俺の所へ頻繁に姿を見せたのは、
やっぱり二匹の間にどことなくぎこちない空気が流れているからだと思う。
どちらも悪くは、無いんだよ。
時間が解決してくれるのを待つと言うと、聞こえは良いけど。
SkaもYonahも、絶対に相手を嫌いになるなんて出来ないだろうから。
今は、何かのきっかけで距離が縮まるのを待つしかない。
「なるほど…俺では、そのきっかけには、なりそうにないな。」
寧ろ、大狼の面影は容易くYonahを、再び追憶の日々へと突き落としてしまうだろう。
俺は振り絞った勇気を飲み込み、Teusの狼に対する観察眼を信じて提言を受け入れた。
「ごめんね?デリケートな時期なんだ。もうちょっとの辛抱だと思うから…」
「良いさ、分かってる。出直すことにしよう。」
俺は彼が毛皮を背もたれとするのを止めたのを感じて、そそくさと立ち上がった。
毛皮をぶるぶるっと震わせると、思ったよりも毛先が舞った。
有難いことだ。
直に冬毛を脱ぎ捨てることが叶いそうだな。
戻ったら、しっかりと水浴びをしておくことにしよう。
「ねえ、Fenrir……」
「こっちに住む話、もう一度、考えてくれないかな。」
…答えは、何も変わらないはずだ。
できるだけ、此方には来るつもりと言っただろう。
「うん…そうだね。そうだった。ごめん。」
「じゃあ、またな。」
「きっとだよ?ちゃんと、来てくれるよね?」
「ああ、約束だ。」
俺には、君との約束の為に、用意してやれるものは、もう何一つないけれど、それでも?
「そうだな。俺が昼寝したくなるほど大量の飯ぐらい、用意してくれたら十分だ。」
「…わかった。ありったけ、頑張ってみるよ。」
「お前、いつから冗談通じなくなった…?」
「君と逢ってからだと思うよ。」
「ふん……」
「お互い、変わったよね?そう思わない?」
「そうか…」
俺は、何一つ、変われてなど、いやしないと思っているけれど。
外側から見たなら、また違っているのかもな。
「そうは、思わないよ。」
「少なくとも、お前は変わらず、俺の……」
「…それじゃあ、また。」
そこまでしか言えず、俊足に尻尾を巻くのも。
相変わらずの臆病者であることよ。