199.老いた蛇 3
199. Old Snake 3
長雨は想像以上に甚大な被害を対岸へ齎していたらしかった。
安全そうな泥濘に一歩脚を踏み入れるたび、ぐじゅりと雨水が染み出して来る。
ヴァン川のすぐ傍に座しているヴェズーヴァは、大洪水に巻き込まれてしまっていたのだ。
ただでさえ、ヨルムンガンドが這いずり廻った影響で、地盤が揺らいで脆くなっている。
これは俺の暮らす森にも言えることだ。もう、至る所に綻びが出始めている。
今まで根を張り、どっしりとした構えを崩さずにいた大樹が、ある日突然、拠り所を失って倒れてしまうのだ。
遠目に映る老朽化した家屋もまた、水浸の影響をまともに受けるだろう。
大狼から逃れ続けた都市であるヴェズーヴァは、この期に及んで幻想的な美しさを帯びている。
彼らは皆、足元に朧げな鏡像を従えている。
まるで、水上都市のようだと思った。
ヴァナヘイムに近い居住地は、無事だと良いのだが。そう案じずにはいられない。
少なくともこの溢れかえる岸辺に、大狼が腹ばいになって心地よい場所はどうやら無さそうだった。
「つまり、お前の指金では無い、と…?」
それでも俺が、暫しの休憩を対岸に選んだのは、
彼の姿を一目見て、思わず一度、目を背けるような無礼をはたらいてしまったからだ。
本来、その所作は何気なく、それも繰り返し行われ続けることだ。
狼たちにとって、相手の眼を直視し続けることは、一種の威嚇に相当するから。
だが俺は、ゆっくりと、礼儀正しく視線を外すことすら怠り、
その男の風貌が、見ていられないほどだと、思わず行為で示してしまったのだ。
弁明の余地は無かったけれども、せめてもの誠意として、
立ち去るべきではないと、考えを改めさせられたのだ。
「うん、本当だよ。いなくなっていたことすら、気づかなかった。」
彼は季節に不釣り合いな、分厚いマントを羽織り、全身を覆い隠した格好で俺を出迎えた。
そのまま俺が円弧に横になったいつもの空間に腰かけると、いよいよあの老い耄れよろしく、ご隠居の暮らしが板についてきていけない。
「正直ね、ここ最近はそれどころじゃ無かったから…」
あっちこっちで雨漏りしちゃって、もう大変。
屋根の補修なんてする余裕無いほど、ずっと降っていたから。
天上から滴った水で目を醒まさずに済む場所を探すので精いっぱいだったよ。
ベッドを何回避難させたことかって感じだ、もう引っ越しは懲り懲り。
「Skaたちの面倒もまともに見てやれなくって…申し訳ない気持ちでいっぱいだ…」
“何言ってるんですか。Teus様は僕たちが雨宿りできるように、あの図書館を開放してくださったんですよ。”
そういえば、雨漏りの心配をしなくてよさそうな家屋が、此処にも一軒だけあったな。
こいつらの格好の避難場所として機能したようで何よりだ。が…
「うん。俺だけでも、Freyaの傍に居れば良いから。」
彼女、窓の無い部屋にいるのを嫌がるからさ。
どんな季節の、どんな空模様であっても、眺めていたいんだろうね。
外界と繋がっていないと、不安なんだ、きっと。
「それに、Garmと約束したから。」
「最期まで看取るって。」
いつ息を引き取っても、おかしくないから。初めはそう捉えていたけれど、どうやら違うね。
きちんと地獄で、言い訳しないような生き方をしたい。
少なくとも今は、そう思って、常に彼の視線を感じるようにしている。
「…ありがとうね。Skaがしょっちゅう、俺達の様子を見に来てくれた。」
“そりゃあ当然です。お二人の身体のことを考えると、僕もう心配で心配で…”
Skaはここぞとばかりに主人の顔に鼻先を近づけると、敬愛の印にと頻りに口元を舐めようと舌を押し付ける。
きっと今までは遠慮していたのだろうが、もう我慢ならなかったようだ。
全体重をかけることこそが、僕の愛情の証ですとでも言うように、容赦がない。
“クウゥゥッ…キュゥゥ……”
「あはは、わかったわかった…。」
…なるほどな。
そんな父親の献身ぶりを見かね、それで仔狼が行動を起こした、という訳か。
群れの長の不在が、勇敢な狼に冒険を促す話は、もう聞き飽きたつもりでいたが。
Siriusも、相当に辛い思いをしていたのだと思うと、これ以上吐きたい悪態も思いつかない。
「ごめんね。心配かけたね…Ska…」
目深に被ったフードから一瞬だけ覗かせたTeusの笑顔は、今までと何一つ変わらない。
卑屈に沈んでいく俺に幾度となく手を差し伸べ、どんな力よりも勇気づけてくれた友達は、
今日も狼たちのことを分け隔てなく、救おうとしている。
それを目の当たりにできただけでも、喜ばしいことだし。
俺達はそれで笑い合うべきだ。
「でも、夢みたいだな。まさか、君から訪ねて来てくれる日が来るなんてさ。」
「そ、そうか……?」
笑い返す、べきなのに。
此方を向いてくれたTeusの顔を見て、俺はまた、人間の言葉を上手く出せなくなってしまう。
狼を一目見て、その瞳に恐怖の色を湛えるような人間の類に、自分は今までで一番近づいているのに。
「そうさ、そうだよ。記憶する限り、初めてじゃないかな?」
「ああ、ああ……」
「ありがとう。とても嬉しかった。」
彼はそうとだけ伝えて微笑むと、またヴァン川に視線を移して、
己の右半身だけが此方に映るよう居住まいをただす。
「俺にはもう、君に会いに行くような力は、残されていないから。」




