199.老いた蛇 2
199. Old Snake 2
「そうか…こいつ…」
背中に乗せていたお荷物をゆっくり頭の上へと滑らせていると、俺は余計なことを想い出してしまった。
「泳ぐのを嫌がっていたな…」
四肢で水を搔いているうちに、勝手に身体が回転して体勢を崩してしまうに違いない。
途中で溺れてしまいそうになる恐怖と闘いながら、
大河を横断するのには、相当な器量を要求されただろう。
流木を骨密度と同じように扱ってやれというのが、無理な話なのだ。
義足による走りを覚えただけでも、驚嘆させられたというのに。
この若狼は、努力という名の才に恵まれていると言って良い。
一目見て分かった。彼は、あの大狼と同じ走りの型を持っている。
真似できないな、と思う。
一歩一歩が、あり得ない程に細いのだ。
挫いてしまわないかと不安になるほど頼りなく映るのに、
鋭い眼識によって選ばれた最高の着地によって、接地時間を最小限に止め、
得られた反動で撓る四肢に従い、跳ねるように進む。
その軽々しさと言ったら、羽が生えていると形容する他無い。
天狼と同じように翼を広げ、空を舞うのだ。
許されるのなら、もう一度、見たいなとさえ思う。
「しょうがないな…」
あと、ちょっとだけ先まで、送ってやることにした。
こちら側の岸辺に寝かせて、そのまま立ち去るつもりだったのだが。
俺が陸地に脚を着けないことさえ徹底すれば、対岸の畔で目を醒まさせてやっても同じことだろう。
起きて現実を知ったら、猛烈に激怒するだろうし、少しでも罪滅ぼしをしなくては。
騙された、ずっと一緒に寝ていたと思ってたのに。
Fenrirさんのバカ、大嫌いって言われるのか…
本当に、もう来てくれなくなってしまうな。
そんなことを考えながら川の流れに前脚で竿刺していると、喉を潤そうとしていたことを想い出した。
歩いて身体も温まって来たし、少し口に含んでから、入水するとしようか。
もうちょっと、俺と貴方だけの世界を愉しみたいしな。
「……。」
四肢を全て川辺に浸して、水面に視線を落とす。
「ふぅっ……」
がぶがぶと飲み込んで、ほっと溜息を吐くところまで、まさに一命を取り留めた病人のそれだった。
しかしどうだ。
映った表情は、幾らかましになったのではなかろうか。
溌溂と尖った耳に、夜明けの雪のように青い瞳が、
貴方を彷彿とさせて当然だ。
「……?」
その狼とは、俺では無かったから。
両耳の間から、そいつは顔を覗かせている。
“おはようございまーす、Fenrirさん。”
“しまっt……!!”
寝ぼけ眼ですらなかった。
にこやか且つ爽やかな笑顔は、彼が俺のことを嵌めた自覚がある何よりの証左だ。
どうやら狼を騙して良いのは、狼に騙される覚悟のある者だけらしい。
いつから、目を醒ましていた。赤仔のように首元の毛皮を口に咥えた時か?それとも、もっと前か?
いずれにせよ、初めからこうなると知っていた。
こいつは俺の背中で、さぞかし愉快な狸寝入りを決め込んでいたことだろう。
“アウォオオオオオオーーーーーーン……”
“ま、待てっ…Sirius…!!”
俺の制止にも構わず、彼は頭上で勝利の雄叫びをあげた。
はりきっていたのだと、最初の上擦った声音で分かる。
この時を、ずっと待っていた。
滅多にないことだからな、自分が先導して群れの遠吠えを誘うのは。
きっとこの上ない喜びに、彼の尻尾は天へと掲げられている。
対称的に此方は、心臓が縮み上がるような恐怖に、全身が強張る。
誘惑に満ちた向こう岸の景色に目をやるのが、これほど恐ろしいことは。
本音を吐露すると、俺とGarmを仕留めんと臨場した、夥しい数のヴァン神族の兵士たちよりも、色濃い絶望を覚えた。
裏切られた気分だ。
まさか、群れ仲間の全員が、共謀していようとは。
“っ……!?”
姿を晦まさなくてはと、判断する間も無かった。
“ウォォォーーン”
“アォォウゥォォォーーーー…”
彼らは狩りの成功を告げる呼びかけへ次々に応えると、瞬く間に対岸の草むらから姿を現したのだ。
よくやった、お前ならやってくれるって、信じていたよ。
そんな新米狼に対する労いが、折り重なって聞こえて来る。
その先頭には、誰よりも息子の帰還を待ち望んで止まない父親がいた。
“シリウスーーっ!!Fenrirさぁーんっ!!お待ちしてましたよーーーっ!!”
“あのやろう…”
ああ、情けない。まるで主人に留守番させられた、飼い犬のようでは無いか。
鎖に繋がれているため、その場を往復することしか出来ないのに、
ぶんぶんと尻尾を振り回して、じっとしていられない様子にそっくりだ。
“はぁ…”
全身の脱力と一緒に、跳ねていた尻尾も萎えてしまった。
…もう、見ないふりをする訳にもいくまい。
これ以上、縄張りに勝手に潜り込む命知らずが増えては、俺の安眠に関わる。
あのバカ親に、仔狼の教育についてきちんと文句を言いに行ってやらなくては。
“フシュルルウゥゥゥッ……!!”
大狼の侵攻の恐ろしさを、思い知らせてやる。
待ってろ。その舌を垂らして満面の笑みでいられるのも、今のうちなんだからな。