197. 穀雨 2
197. April Rain 2
俺が一切の反応を示さないことなど、彼にとってはいつものことに違いなかった。
それを勝手に、歓迎の意とまではいかずとも、拒まれてはいないと捉えて、
尻尾を決して水平から上げずに振り回す、控えめな喜びを露にする。
そこまで自分の中で鮮明に思い描けてしまうくらいだから、Skaは本当に愛されるべき狼だとの思いを新たにする。
だからこうして俺が、聞き分けの無い子供のように苛立ちを覚えるのは、全くもって理に適っていないことは分かっているつもりだ。
空気を呼んで背後に立ち尽くすことさえ耐え切れず、お前が俺の視界に入って来た時の、
その耳を垂らした不安げな表情を、ありったけの憎しみを込めて睨みつけるくらいなら。
俺はずっと目を瞑ったまま、どんな吠え掛けにも応じないのを見かねて、
この場を立ち去ってくれるのを待つつもりでいる。
“……。”
しかし、その狼の様子は、いつもと様子が違ったのだ。
“今度は、道に迷わず来れました。”
……?
ちょっぴり誇らしげで、褒めて貰えるかなと期待を隠せない。
その声を聞き取れた自信が無かった。
いつから、俺は友の吠え声に、懐かしみを覚えるようになってしまったのだ。
そんな風だったか、と。
いや、お前がこの森に足を踏み入れた時点で、その足取りによって、気が付くべきだったのだ。
“ちゃんと、一匹で。”
お前…
Skaじゃない、な?
“大変だっただろう。”
よく、此処まで泥濘んだ森を抜けて来れたな。
獣道の多くが、震災と腐敗によって、塗りつぶされてしまった。
狼の生得的な踏破力が、存分に試されたことだろう。
“この脚で泳ぐの、とっても大変でした。”
地上を走るのは、土の感覚が掴めて、だいぶ慣れて来たんですけれど、
水中ではどうしても密度が違くて、不格好に浮いちゃうんですよね。
でもそこからは、不思議と道に迷いませんでした。
“帰り道は、ちょっぴり自信無いですけど。”
この前は、Fenrirさんが、お家まで送ってくれたから。
“…そうか。”
恥ずかし気にそんな可愛いことを言うのに、俺はそうとだけ呟くだけで、冷たくあしらってしまう。
もっと、言葉を選び尽くして、褒めてくれると思っていたことだろう。
そうでなくとも、お前にご馳走してやるべき駄賃さえも、生憎今は持ち合わせていないのだ。
ごめんな。
“えっと…ごめんなさい…”
雨音ばかりの沈黙に耐えかねたのか、彼は謝った。
どうしてそんなことを口走ったのか、分らない。
身を牙で貫かれるよりも、辛い筈なのに。
“あいつからしても、自分よりは効果があると思ったんだろう。”
“それって…パパのこと、ですか?”
どっちでも良い。大差ないだろう。
“そんな言い方、しないで欲しいです…”
“だが、お前はあいつに頼まれて、此処までやって来たのだろう?”
“でも…でも、何度も、遠吠えをしたけれど、一度もFenrirさん応えて下さらなかったから…“
“自らの意志で、俺に逢いに来た訳ではないと。”
“…?”
“昨冬に、俺の元へと助けを求めに来たお前は、そんな風では無かった。”
“そっ…そんな…”
“命がけで会いに来てくれたな。”
“……。”
“だから、届いたんだ。”
“聞こえなかったよ。お前が来るまで。”
“俺の耳には、誰の声も、足音も。”
“だから、俺は何もしなかった。それだけだ。”
“……。”
“パパは…”
“パパはTeus様と、Freyaさんのご看病で、手一杯なんです…”
“ママも、ずっと悲しそうにしてるし……”
じわりと、瞳が潤んだのが分かった。
せっかく頑張って、Fenrirさんに会いに来たのに。
今にも泣きだしそうな顔で俯くのが、ありありと想像出来て。
もう耐えられない。
“わ、悪かった…ごめんな…”
小さく啜り泣く声が漏れ出した所で、俺は自分より遥かに幼い狼の前で、子供のように卑屈になることを諦めた。
“酷いこと言ってしまった…本当に済まない…”
お前に対して怒りをぶつけたって、何にもならないのに。
“ありがとう。会いに来てくれて。”
来てくれて、嬉しかった。
“だが、Sirius。俺は、俺はどうしても……。”
“どうしても、この森から、出られないんだ……”
“うっ……うぅっ…うぅっ…”
ああ、何てことだ。泣かせてしまった。
TeusとSkaに、本気で殺される。
“ぼっ…ぼくのほうこそぉっ……ごめん、なさいぃ…”
“結局、Fenrirさんの言う通りなんですっ……。”
“Teus様の…ショウシュウに、応じて欲しいんです…”
彼は恐らく、Skaから受け取った伝言をなるべくそのまま伝えようと、懸命に人間の言葉を紡ごうと試みる。
意味を上手に理解できない様子が、昔の父親を彷彿とさせて、胸がじわりと熱くなった。
そうか。お遣いも、任せて貰えるようになったんだなあ。
“Fenrirさんが、生きてるって分かっただけでも良かった…!!”
“パパが、Fenrirさんはきっと、具合悪そうにしてるからって…”
氾濫のあと、一度も姿をお見せにならなかったから。
皆さん、Fenrirさんのこと、とっても心配してるんです。
こっちには、Fenrirさんだって雨宿りが出来るお家もあります。
ご飯だって、きっと用意してくれます。
“少なくとも此処に居るよりは…ね?”
“ねえ、Fenrirさん…”
“一緒に、帰ろ?”
“……。”
“…分かってる。”
好きで此処に突っ立ているんだ。放っておいてくれ。
なんて、もう言えない。
でも、もうちょっとだけ。
あともう少しだけだ。
晴れ間が覗くまで、待ってはくれないか。
“じゃあ、僕も此処で一緒に待ってます。”
“勝手にしろ、なんて言えると思うか…?”
お前は自らを過少評価すべきではない。
一匹で帰れるなら、迷いなくそうすべきだ。
帰りが遅くなっただけで、父親と母親が、一体どれだけ心配すると思っているんだ?
お願いだ、これ以上、俺をこの物語の悪役にしないでくれ。
そう伝えるが早いか、
彼は幹の根元で雨宿りをするように、俺の後ろ脚にぴたりと毛皮をくっつけ丸くなってしまった。
この距離感で、我慢してあげます。でも、絶対に一匹にはしないでくださいね。
そうやって、俺をあっという間にその場に縛り付けてしまったのだ。
“今日は、わがおおかみと、お泊りだ。”
-Chapter 5 Brothers’ War Ends