197. 穀雨
197. April Rain
酷い春の長雨だった。
この森に巣食った赤い腐敗を浄化する為だとでも言うのだろうか。
昼夜を問わずに降りしきることが、一週間に渡って続いた。
ただでさえ憂慮されていた雪解けの季節だと言うのに、
ヴァン川の増水被害は、甚大なものになるだろうと、容易に想像がつく。
あの神様は、まるで土地勘が無い。
住処は、対岸から目を光らせる怪物のことも考慮に入れ、やはり水源から離すべきだった。
自らの意志で拠点を選んだわけでは無いだろうが、ただでさえ老朽化した家屋への浸水で、今頃大慌てに違いない。
まあ、知ったことか。
文字通り、ヴァン川によって寸断されているのだ。
俺はあれから、一度も対岸へと脚を踏み入れていない。
泳いで渡ることも出来なくは無いだろうが、正直この身体を引き摺る気力が湧いてこない。
望まれても、今は此処から動きたくない。
今は。
自分のことで、精いっぱいだ。
「………。」
「どうして、俺のことを一匹にしてしまうんです?」
「俺は…強くなんか、なっていない。」
結局、何もできずに、貴方たちが紡ぐ物語をただ黙って眺めているだけだった。
あなた方が起こしてくれた奇跡に、縋りつくだけ。
その帰結が、これだ。
俺も、あいつと同じだ。
戦争の爪痕として、長年の住処を失った。
自分でやっておいてなんだが、酷い有様だ。もう修復のしようがない。
自然が齎してくれた産物だから、いつかは朽ちてなくなるとは言え、満身創痍に応える。
入り口を完全に塞がれ、見るも無残に門構えを爆破された洞穴の前で、もう呆然と立ち尽くすことしか出来ない。
だが、それが良い。
既に雨粒に穿たれて風化が始まっていて、寂れた廃墟のような趣があるからではない。
この瓦礫の山を、墓標のようにとらえるならば。
こうして首を垂れているのも、必要な行いであると思えて来る。
傍に、いてあげなくちゃならない。
偲ぶ時間だけなら、幾らでも俺には与えられている。
こんな長雨の、傘にすらなって上げられなくて、ごめんなさい。
きっと楽園も地獄も、雨なんか降らないのだろうなあ。
「……。」
撫でられるって、こんな感じだっただろうか。
毛皮を洗い流す、微睡むような心地よさに目を細めて笑った。
せめて雨が上がるまでは、此処から離れないようにしよう。
何の意味も無かったが、そう心に決めて、達成出来たら少しは貴方が浮かばれるのだ、と思い込むことにした。
そうすると、世界は俺のことを嘲笑って、
やはりと言うべきか、こんな驟雨を昼夜問わず降らせてしまうのだ。
一度決めたことだから、引き下がれない。
抗い難い運命との、意地の張り合いのようなものだけれど。
そろそろじゃないか。もう少しで、救われるのではないか。
俺は朦朧とした意識の中で、ずっと、
自戒のような苦行にいそしんでいたのだった。
どれだけの時間が流れたか分からない。
空がずっと薄暗いせいで、昼夜の検討も怪しい。
ただ、雨音を除けば、あの日のような寂静に森は包まれている。
多分、その日は火曜日で、そして昼下がりだ。
とある来訪者によって、俺は立ち尽くしての転寝を妨げられる。
“ウッフ…ウッフ…”
全く気が付かなかった辺り、どうやら狼の自覚を失う程に、眠りこけていたらしい。
しかし、その正体を見破るのに、そう時間はかからなかったのだが。
Ska、か。
まあ、Teusが俺の元へと寄越すのは、いつものことだ。
上手に意思の疎通を測れないのは、今に始まったことでは無い。
笑っちゃうな。
俺がいじけて、森の中に引きこもっていると思っているんだろう。
自分が直接向かうと、角が立つと分かっているのだ。
俺は素直に、お前に言いたいことが吐き出せないし。
お前もお前で、俺に隠したいことが何なのか、分らなくなって来てる。
だから、こうやって狼を遣わせる。
狼を、‘媒介者’として。
率直に言って、これほどお前のことを、鬱陶しく思ったことは無い。
どれだけ機嫌が悪かろうと、Skaであれば、幾らか俺はましな態度を取るだろう。
そんな下心が透けて、見て見ぬふりが難しいほどだ。
いいや、悪かった。お前に怒りをぶつけても、仕方がないよな。
でもどうして、俺たちが今まで通りの関係を保てると考えているのか、理解に苦しむのだ。
今だけは、一匹の時間が欲しい。
野垂れ死にはしていないから。それだけ伝えてくれたなら、十分だ。
頼む、帰ってくれ。